人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

遠藤周作を読んで(第8回)

加藤宗哉の「遠藤周作」という本に、
おおむね次のような記述があります。
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遠藤周作が身近へ置いた一枚の写真がある。
母親の郁が和服姿でヴァイオリンを右脇に抱えている。
周作はこの写真を、普段は自宅と仕事場の書斎に、夏は軽井沢の山荘の食堂の棚に、海外に出かけた際はホテル部屋の机に、そして晩年の闘病生活では病室の枕元に置いた。
俗に言う母親コンプレックスを、本人も否定はしなかった。
外で酒を飲んだり悪事をはたらいたりして帰ってくれば写真のなかの母は叱りつける顔になり、書斎で仕事を懸命にこなせば穏やかな顔になる。
同じ写真なのに表情が変わる。
壮年になっても母の顔色を気にかけ、母を怖いと感じたのは、自分がつねに「母を良心の規準にしているから」と明かした。

私としては驚きの心理ですけど、
「自分の知ってることや体験」こそ、「地球」に対して大地を「針の先で突いた跡」にも及ばない、微小極まるものですからね、
「ああ、そうなんですか! 
そういうことがあるんですね。」
・・・って言う他ありません。

それで、改めて思いました、
「私」って、何? ・・・と。
さらに言えば、「私」って、在るの?

なぜかと言えば、加藤宗哉の本に書いてあるとおりだったら、
遠藤周作には、「遠藤周作自身」ってものがあるんだろうか?
・・・って疑問が起きたからです。

ああ、それよりもですね、
「自分自身」というものは、
「他人の影響」をものすごく受けているんだ
・・・っていうのが、正確な見解かも知れません。

そして、人間関係は、
(1)相手を強力に支配し、束縛するレベルから、
(2)相手の自由を尊重し、協調するレベルまで、
度合いがいろいろなんじゃないかと思いまして、
次回はそんなことも書いてみたいです。

もちろん、(1)の関係で支配されたとしたら、
人間関係に喜びは感じられませんよね。