人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

遠藤周作を読んで(第7回)

遠藤周作の小説に、
次のようなシーンがあります。

それは、母のヴァイオリン演奏会の情景なんですが、
人影のない廊下の椅子に一人腰掛け、
壁に向き合っている父の姿が描写されていて、
「その時の父のうしろ姿には、
 だれからも相手にされない、
 寂しそうな翳があった。」
・・・と書いてあります。

あの、「妻の演奏会」なのに、
妻の舞台を見るのを避けて、
一人、廊下の壁に向かって座る夫・・・なんて、
なんか、哀れすぎる感じがします、私は。

もし仮に、仲良し夫婦だったとしたら、
夫は「客席で聴く」などというヒマがなく、
演奏会運営のスタッフとして、
「陰の力」を発揮して働くと思うんですけどね。

では、妻の身になってみればどうでしょうか?
夫は、自分の演奏会を「聴いてくれない」し、
当然、演奏会の「手助けしてもくれない」んですよね。

そういう夫と妻って、
「形式上は」夫婦だけど、実態は、
「人間関係が成立してない他人」じゃないかと思いました。

今日はただ、世の中には、
そういう夫婦もいるし、さらにもっと言えば、
親子としていっしょに暮らしながらも、
心理的には「赤の他人同様」の親子関係もあり、
また、いっしょに住む家族でありながら、
人間関係も心のつながりも皆無という例があることを、
私は見聞してますってことだけを書いて終わります。

もう一つ最後に、
小説の主人公である子どもは、
「壁に向き合っている父」とは、
「心の面で何もつながっていない」ってことを感じました。
そうですねえ、主人公である子どもにも、
主人公の母にも父にも、
「幸福感」はないだろうと思いました。
なにしろ、
「温かい人間関係」が成立してないんですから。