人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

理解不能な他人の行為

世の中にはいろんなタイプの人がいまして、
例えばAタイプの人は、
Bタイプの人が「全く理解できない」
っていうようなことが、
多々、あると思います。

さて、冬に冷たい水で米を研ぐことさえ、
いやな私ですからね、ましてや、
3月の寒い夜中にみずごりを取るなんて、
もうとても「できません」、
絶対できません、私には。

あの、昨日の続きですけど、
初子がみずごりを取る必要と言うか、
「初子が」みずごりを取らなければならない、
そんな理由って、ありますか?

無いですよね。
それで、初子がみずごりを取る理由を、
全く理解できないのは普通のことでしょうし、
そういう人をAタイプとすれば、
初子はBタイプなんでしょうね。

でも、初子はみずごりを取ってますから、
「なぜ初子はみずごりを取るのか」、
その気持ちを考えてみることは、
人間を深く理解することの一つに
なるかも知れません。

でも、初子の気持ちを書くのは、
気が重いことなので、
また、次回に書ければと思います。

やっぱり「みずごり」だった

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再放送ドラマ「おしん」の194話で、
夜中に水音が聞こえるのです。

その音を聴いた時、私は、
水垢離だろうと思いました。

ドラマでは、おしんが、
「水の音がする」と言って、外に出ます。
初子が水をかぶっている姿が見えます。

それで、竜三もやってきました。
竜三 : 「初子、何してるんだ。」

そこに、長男の雄もやってきます。
雄 : 「はっちゃん。」
初子 : 「すみません、
 水ばかぶって、お祈りをすると、
 願いごと、叶うって言うから。」

竜三 : 「バカなこと、
 するんじゃないよ。」

初子 : 「いなかでは、そう言うんだ。
 父ちゃんが病気した時、
 かあちゃんがみずごりして、治ったんだ。」

おしん : 「願いごとって、はっちゃん。」

初子 : 「雄坊ちゃまが、
 中学に合格なさるように、 
 合格していただきたいんだっす。」

雄 : 「バカ!そんなこと、迷信だよ。」

おしん : 「早く着替えないと。」

あの、このシーンですけどね、私は、
書くことがいっぱいありまして、でも、
今日は書ききれないので、
また次回にしますけど、
水ごりのことばかりではなく、
初子のことについて、また、
初子を取り巻く大人のことについて、
たくさんのことを書きたいと思いまして、
しばらくの間、初子の話題を続けます。

温かく優しい心を育てる

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読売新聞の人生案内ですけど、
「育てた孫に彼女・・・寂しい」
という標題のがありました。

相談者は80代女性で、
孫のことだそうですが、その人は、
孫が生後10か月から育てたそうです。

それで、こんなふうに書いてあったのが、
私は、気になりました。
「祖母に育てられたから
 劣っていると言われないよう、
 言葉遣いや礼儀など厳しく教え、
 本気で接しました。」

あの、それ、彼女が「本気で」育てた、
その「本気さ」っていうのは、
ごめんなさいね、こんなことを言って、
でも、その「本気」っていうのは、
孫に対する愛情が「本気」なんじゃなく、
相談者の彼女自身が、
世間とか他の人から、
「良い評価を得たい」、また、
孫を立派に育てたと「見られたい」、
孫の為によくやったとほめられたい
 ・ ・ ・ というのが本心でしょうね。

だから、その育児は、祖母として、
どんなに一生懸命だったとしてもですね、
「孫のため」にはなってないと思います。

それで、この続きは、
また次回に書きたいと思いますけど、
子育てというものは、養育者がですね、
子どもといっしょが「楽しい」状態で、
子どもの思いや願い、自主性を尊重し、
たとえ赤ちゃんや幼児であっても、
一個の独立した人格として大切に接し、
年齢の差が大きくてもそれとは無関係に、
「人と人との交流」という考えを基本に、
いっしょに、共に、喜ばしく、
日々を過ごすようにすることが、私は、
一番良い子育てだと思うんです。

そして、養育している子どもを、
「他の子と比較する」ことを行わず、
もちろん、よその子より優れているか、
劣っているかという視点で見ることなく、
表面的な言葉遣いや礼儀なんかではなく、
優しく、温かい心が持てることを重視し、
子どもが毎日を、
「安心して」送れるように配慮するなら、
とてもすばらしい子育てだと思います。

あの、優しい心が持てる、
温かい心が持てるっていうことは、
子どもだろうが大人だろうが、
人としてとても大切な心の持ち方だし、
そんな気持ちで人と交流することの中に、
幸せがあると考える私です。

他人を犠牲にする不幸

前回、「職務熱心」ってこと、
書きましたけど、私もねえ、以前は、
「職務熱心」人間だったと思います。

それで、「職務熱心」の理由ですが、
「私の場合」について書きますと、
上司や会社から認められたい一心で、
そのためには、顧客その他ですね、
「他の人」の利益にならないこと、
いいえ、相手を苦しめることなども、
「していた」ってこと、告白です。

あの、上司とか職場の中で、自分が、
良い評価を得るためには、顧客とかが、
不利益になるとか、ひどいめにあう
 ・ ・ ・ かどうかなんてことは、
「考えてられない」情況だったんです。
今はもう、職場から離れましたので、
こんなことが言えるようになりまして、
まあ、私の場合は、幸運でしたね。
(非人間的な職場からは、
収入を放棄しても、離れたほうが幸せ
 ・ ・ ・ という面はあるんですけど、
そうしたら、生きてけなくなる人も!)

それで、前回書いた義務感ですけど、
自分の職務はAであると言われたら、
Aを達成するために「必死になる」、
その「必死で行う」理由というのは、
「自分が認められたい」とか、
「自分が良い評価を得たい」からで、
例えば人を相手にする業務だったら、
「相手の人」の利益を考える余裕など、
「無い」と思いますね、なぜなら、
「相手の幸せ」を考えていたら、
できない業務ってのが、世の中には、
いっぱいあるからです。
(顧客とか、人々の幸せではなく、
 事業の利益を最大化させることを、
  目的にできるのが今の社会ですね。)

ああ、なんか、
そんなことを書いてましたら、
心が暗くなってしまいましたので、
続きは次回にしたいと思いますが、
「世の中が悪いから」、それで、
巻き込まれて自分も悪くなっちゃう
 ・ ・ ・ ってこと、
あるような気がします。

今の私は、「給料を得るために」、
相手の幸せではないとわかることを、
しなければならない立場でないので、
そのこと、すごくありがたいですし、
うれしく思います。

なお、次回はですね、「自分が」、
世間とか他の人から、
「良い評価を得たい」とか、
すばらしい人と「見られたい」ため、
相手のことをひどいめにあわせても、
意に介さないという、
悪魔的な人間のことを、
ちょっと書きたい ・ ・ ・ とは、
一応、思ってますけど、
悲惨な話題なので、実際、
書けるかどうかについては、
今日の段階では、
「わかりません」と言うしかないです。

相手を苦しめる義務感

母が知人から聞いたという話です。
その知人を、Aさんとしましょう。
Aさんはある時、
クリーニング店に行ったそうですが、
その店は、
いつもクリーニングを頼む店とは、
違う店だったそうです。

店に入ったとたん、
店員がAさんを一目見るなり、
「固まってしまった」そうです。

Aさんは、今は退職してますが、
以前、B女子高で、
先生をしていたんだそうです。

それでAさんは、その、
固まって表情がこわばった店員に、
昔、B女子高の生徒だったのか、
聞いたそうです。

そしたらそのとおりで、
その店員は、
「先生が怖かった」と ・ ・ ・

それでAさんは、
昔、「厳しく」指導したことを、
詫びたそうですけどね、
Aさんはとにかく、
すごく「熱心な先生」だったので、
「できない」生徒は居残りさせて、
「学習指導」したんだそうです。

いやあ、Aさんが生徒だったのは、
数十年前のことだと言いますから、
その店員にとっては、
数十年前のことであっても、
今でも、恐怖だったということで、
心に受けた傷のものすごさを、
考えちゃった私でした。

まあ、その先生は、
「義務感」でそうしていたわけで、
でも、私が思いますに、
別にねえ、学習面で劣っていても、
世の中に生きていく上では、
何も問題ないと思いますから、
「できないといけない」なんてこと、
ないと思いますね、教科なんて。

だから、私は、
何かの科目ができる、できないなど、
「関係なく」ですね、
先生と生徒は、「楽しく」というか、
欠点があっても相手を尊重して、
交流できるのがいいと思います。

あの、私は、Aさんという方を、
非難しているわけではありません。
AさんはAさんで、
「職務に熱心」だったんでしょうけど、
私としては、「職務熱心」以前に、
「融和的人間関係」を重視するのが、
もっと望ましいかなあと思いまして、
ああ、でも、私自身にも、
Aさんと同じように、
「職務熱心」だったこともあったので、
そのことを考えてみましたら、
自分なぜそうしたのか、
思い当たって反省することがあって、
次回、それを書ければと思います。

「好き」と「無関心」で大差

前回の続きですけど、
おしんがひどいめにあわされるシーンで、
テレビのスイッチを切った私ですけど、
お加代がもっと残酷な場面を見ても、
ドラマを見続けることができたんですね。

最初、それが不思議だったんですけど、
よく考えてみましたら、私、
おしんのことが好きになっちゃっていて、
それに比べれば、お加代は、
ドラマの「登場人物」の一人に過ぎず、
まあ、無関心だったんだと気付きました。

それで、「気になる人」に対しては、
興味を持って接することになりまして、
気持ちがひきつけられるんですけどね、
でも、私にとって「どうでもいい他人」も、
世の中には、たくさんいるってことですね。

そうしますと、自分にとって「他の人」は、
二つに分類できることになると思います。
一つは、関心を持っちゃう「気になる人」、
もう一つは、私とは無関係な存在としての、
どうでもいい「赤の他人」です。

その場合、「気になる人」に対しては、
その人が幸せであればうれしいし、
困ってるとか苦しんでるような情況では、
「何とかならないか」って、それは真剣に、
心配りをすることになると思うんです。

でも、自分と無関係の赤の他人だったら、
その人の痛みや苦しみなんてことは、
「自分と関係ない」ことだし、
だいたい、他人の痛みや苦しみってのは、
その当人のものであって、「私には」、
他人の痛みや苦しみが体験できないので、
「知ろうともしない」ことも普通かなあ
 ・ ・ ・ と思います。
あの、私は、観音様じゃないんですから。

それで、もう一つ思ったことがあります。
現実のこの世には、他人を痛めつける人、
いじめたり、攻撃したりする人ってのが、
少なからず「いる」んですけどね、
「他人を痛めつけて平気な人」って、
相手に対して「無関心」な人じゃないか?
 ・ ・ ・ って、今、思いました。

そして、ですね、「無関心」ってことは、
その人に対して「好意や愛情が持てない」
っていうことだろうと思いました。

この続きは、また次回以降に書きたいです。

自分の心の不思議

再放送ドラマ「おしん」の
186回から188回まで、
私は「見ました」
 ・ ・ ・ と言いますのは、
「途中でテレビを消さないで」
見ることができた
ということなんです。

あの、「おしん」の佐賀編で、
お清からおしんがいじめられる場面、
私はもう、ドラマ展開の途中で、
何回もテレビを消したのでした、
おしんのいじめられかたがひどくて、
もう、とても、
「見ていられなかった」からです。

ところが、ですね、
186回から188回までは、
加世のストーリーだったのですが、
佳代がむごい扱いを受けるひどさは、
おしんがいじめられた以上だと、
私は思いました。

なのに、なのに、
残酷な加世の姿を見ていながら、
私は、その悲惨極まりない様子を、
「見続けることができた」んです。
つまり、
「テレビを消したりしないで」です。

後日、そのことを考えてみて、私は、
愕然としました。
それは、今まで以上に
「悲惨なシーン」だったにもかかわらず、
なぜ、私の心は、
テレビを消しちゃうほどには、
動揺しなかったのか?
ということなんです。

もし、「悲惨なシーン」という理由で、
「見ることができない」というのなら、
おしん以上に、
ひどいめにあわされている場面を、
平然と見ていられたのか?
自分の心が不可解としか、
言いようがありません。

それで私は、おしんの「佐賀編」で、
たびたびテレビを消しちゃったのには、
別の理由があると考えました。
また、それで私は、
今まで気付かなかった自分の気持ちを、
考えることができました。

さて、その内容については、
次回に書きたいと思います。