人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

人の人生が左右できると

今、台風で荒天になってきましたが、
「人事異動」って、人によっては、
台風の比ではない「大ごと」だって、
感じる人もあるようですね。

さて、大規模な人事異動の担当者が、
こんなことを言ってたそうでして、
ああ、人によっては、
そういう気持ちなる人もいるのかと。

もう「おもしろくて、おもしろくて」
しょうがないんだそうです、
人事異動を決める作業が ・ ・ ・

世の中には、出世に血道をあげる人、
昇進を懸けて血眼になる人、
また、夫の栄進、栄転に必死の妻、
さらに、子どもの栄達に夢中の親、
まあ、いろんな人がいますけど、
そういう人を狂喜させることも、
失意のどん底に沈めることも、
人事担当者が決められるとすれば、
そういう人事担当者って、
絶対専制君主になったような気分が、
味わえるのかもしれませんね、
「地獄的な喜悦」と思いますけど。

そして、「他人の人生」に、
重大、あるいは決定的な、
影響を与えることができるとすれば、
人事担当者は、まるで自分が、
「全能の帝王」になった気分だから、
うれしくて、おもしろくて、
しょうがないのかなあと思いました。

それで、「他人の人生」を、
「自分が思うように動かせる」の、
それは、あるタイプの人にとっては、
無上にうれしいことなのかも?

もちろん、
そういうタイプの人になるためには、
人に対する温かい心や優しい気持ち、
人を尊重し、大切にする心などを、
「無くす」必要がありまして、
また、それを、反対の面から言えば、
人の優しさ、温かさ、好意や愛情を、
「信じられない」不幸な人であって、
冷酷非情な人間だからこそ、
「他人の人生を左右する」ことが、
おもしろくてしょうがないんだと、
私は想像します。

さて、「不幸な人」と書いたのは、
あくまでも「私自身」の感想でして、
他人の人事を動かすことで、
「動かされる人」を操る感覚になれ、
「うれしくてしょうがない」わけで、
蜜の味、喜びの絶頂でしょうから、
自分が不幸だなんて感覚があるとは、
もう、全然、全く、考えられません。

それで、私が考える幸福というのは、
相手の人といっしょに、
喜ばしい時を過ごすことでして、
相手の人の行動とか人生というのは、
その人が「自主的に決める」もので、
もちろん私自身の行動や人生も、
自分が主人公となって自分で決める、
そういう「自分の生き方」ができて、
他の人といっしょに、
喜ばしい時間が過ごせるってことが、
私の喜びでして、そういう場ですが、
社会的な立場とか肩書き、また、
人から受ける評判などと無縁であり、
どういう人であれ、
社会的にどんな評価を受けようとも、
そんなこととは関係ない場で、
人と交流できることが、
私の喜びなんですよね。