人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

他人をどう見るか

再放送のNHKドラマ「おしん」118話で、
竜三の母(清)は、こう言います。

清:「竜一人でやりよっ時は
  結構うまくいっとったところへ、
  連れ添うもんが
  そがん運ば持ってくっ時もあっとじゃっけん。
  竜一人ない、工場建てるごたことも
  せんじゃったろうし。
  どうせ女房に尻ばひっぱたかれて、
  つい手ば広げたとじゃなかね。」

また、次のようにも言います。
清:「亭主が法外なことをしようとすっぎ、
  止むっとが女房の役目じゃろう。」

竜三が新工場を建てることに、おしんは、
一貫して反対してきたのが真実なんですけど、
竜三の母は、客観的な事実を見ようとはせず、
事実誤認というより、事実とは正反対の、
まさに空想・妄想の「思い込み」によって、
おしんを悪者にするわけですが、世の中には、
そういう類のことって、いっぱいありますね。

それで、私が思いますに、竜三の母自身が、
夫の尻をひっぱたいて、
自分の思うように夫を操作し、
夫の行動を操るような妻のタイプだろうと、
私は想像します・・・というより、確信です。

また、竜三がおむつを洗っていると、
清(竜三の母)がそれを見て言います。
清: 竜、お前がそがん甘やかすけん、
  女房がつけあがって
  ずうずうしゅうなっと!」

そうですねえ、竜三の母自身のタイプですが、
優しくしてくれる夫(や他人)に対しては、
それをいいことに、また、それに乗じて、
「つけあがり、ずうずうしくなる」という、
「ずるい」というか、誠意の無い人間で、
「自分がそういうタイプ」だからこそ、
他人も「自分と同じ」だと思うわけでしょう。

つまり、竜三の母、清という人物は、
夫(や他の人)に誠意で接する気持ちが無く、
夫(や他の人)に好意を持ったり、愛したり、
また、夫(や他の人)といっしょになって、
喜びの人生を築いていこうなんていう心は、
「持ち合わせてない」し、また、世の中には、
好意や善意で人に接する人間がいること自体、
夢にも思えないし、そんな人間がいるなんて、
信じられないという心情の人だと思います。

ところが、おしんは、
「でも、どうやったら、
 お母さんに気に入ってもらえるか・・・」
と、竜三に言うんです。
ですけど、私の確信は、おしんがですね、
「どんなことをしようと、
 気に入ってもらえるようにはならない」
ということなんです。

それで、おしんのことを、
竜三の母が気に入るようになるためには、
竜三の母の「気持ちが入れ替わり」、
人間観の大転換が起こることによって、
人格そのものが変わってしまわなければ、
網絶対不可能なことだと思いますから、
おしんの希望はわかりますけど、それは、
現実においては、まず「不可能」ですね。

しかし、夢物語みたいであっても、
竜三の母が優しくて温かい心を獲得し、
人に対して好意が持て、愛することができ、
人といっしょに過ごすことに喜びを感じ、
人といっしょに楽しめしる幸福を得ること、
それは結局、このブログのテーマである
「人間関係の喜び」を生きることですけど、
そうなれたら問題解決なんですけどねえ。

それで、夢物語と書いたのは、
その問題解決がたいへん困難だからですが、
それが「空想」の段階を超越して、
「現実に起こる」ことがあるわけでして、
そのためには、たとえば竜三の母の場合、
おしんとは全く別の人との人間関係、
息子の竜三とも、夫とも無関係の、
全く別の人との人間関係、
そして、彼女の家族や親戚とも全く別の、
ほんとにほんとに「赤の他人」というか、
今までの人生で全く無関係だった人々との、
「新しい人間関係」の中で、
人に対する信頼、人に対する好意や愛、
心の温かさや優しさ、善意や親切など、
「喜ばしい人間関係」を体験するならば、
彼女の心の問題が解決ができる可能性が、
あるでしょうね。

そして、問題解決どころか、竜三の母も、
おしんも、竜三も、その家族一同も、
みんなそろってさらに不幸の道を進み、
生き地獄の様相にはまる道もありまして、
それは、おしんが竜三の母に隷属し、
竜三も母に隷属し、その他の家族一同も、
清の「ご機嫌をとる」ようになりまして、
清が、家族全員の事実上の支配者になる、
そうなりますと清は魔人の域に達するし、
一家一族全員が、魔窟に住む人間になる、
そういう可能性だってあると思います。