人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

隷従させられる過程

おしん」のことを書いてきましたが、
今日は123話のことです。
おしんは言います。
「ここにいて、ここで苦労することは
 何にもなんないのよ。
 私、どんだけ一生懸命がんばったって、
 お母さんには気に入らない嫁でしょ?
 田倉の人間になろうと努めたって、
 家族だって
 認めてもらってないんだから!」

・ ・ ・ そうなんですね、
必死に盲従し、言われるがままになり、
「自分を殺して」相手に隷属しても、
相手は決して自分を認めてくれない、
そういう人間関係って、あるんです。

ですから、夫の竜三の言葉は、
完全に間違ってますし、誤認識です。
竜三は言います。
「おふくろや兄貴夫婦に
 好かれるおなごになること、
 考えるほうが先じゃないのか? 」

竜三は、おしんの態度しだいで、
「おふくろや兄貴夫婦」が、
おしんのことを「すきになる」と、
思ってるみたいですけど、
そんなことはありえないんですよね。
なにしろ、おしんは、彼らにとって、
「排除したいじゃま者」なんですから。

さて、ナレーションがこう言います。
おしんはやはりこの家では
 よそ者でしかない自分を
 思い知らされてつらかった。
 いつかこの家を出ようと
 おしんが心に決めたのは、
 この夜からであった。」

そうですねえ、おしんは、
髪結いができる、美容師の技術もある、
和裁ができるし、洋裁もできるんです。
ですから、「家を出ても」
生活が成り立ちますよね。

でも、子どもの場合はどうでしょう。
子どもが親からひどいめにあわされて、
「家を出たい」と思っても、
暮らしが成り立ちませんから、
家を出ることができないと思います、
15歳以上くらいなら、
あるいは、可能かも知れませんけど。

そうしますと、小中学生までは、
どんなにひどい親だとしても、
隷従するほか無いのが現実だろうと、
私は思います。

それで、おしんと違って子どもは、
生活力がありませんから、
親からどんなに苦しめられ、
また、ひどく扱われたとしても、
「隷従する」しかないんですよね。

そしてそれは、ものすごい悲劇で、
それこそ地獄じゃないかと思います。

このブログは、
「人間関係の喜び」なんですけど、
そこに見られるのは、ただただ、
「人間関係の苦しみ」でしかないと、
私は思います。

そして、自分の子どもや家族に、
「苦しみしか与えられない」人って、
いるんですね、世の中には。

あの、人が生きていく喜びって、
和やかで楽しい人間関係にあると、
私は思うんですけど、
もう最初から、そういう人間関係が、
「できない人」っていうのが、
いるように思われます。

そういう人はどうしても、
他人をひどいめにあわせてみたり、
他人を支配したい欲求を強める、
そんな方向に行くのかも知れません。