人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

他人の人生操作の魔境

前回の続きを書きますが、
再放送ドラマ「おしん」の163話で、
母親の清が、息子の竜三に言います。
 「どこが、気に入らないの?
 お前が、祝言を伸ばしてくれと言うから、
 不義理をして
 来年の春にしてもらったんじゃないか。」

竜三 : 「俺は、祝言
 伸ばしてくれと言った覚えはない。
 はっきり、断ってくれと言ったはずだ!」

お清 : 「わがままも、
 いい加減にしないさい!
 おしんが、出て行って、
 もう1年になるだろうが!」

そして、次のようにウソをつきます。
 「まだ、おしんのこと思っているのか?
 おしんなんて、サッサと家を出て行って、
 それきり手紙の一つもよこさない女子を、
 まだ待つというのか?
 悪いこと言わないから、
 他のいい女子をもらったら、
 おしんのことなど忘れるよ。
 お前のこと愛想をつかして取り残されて、
 一人になってかわいそうで見ておれない。」

あの、お清は、おしんからきた手紙、
それは「竜三宛」の手紙なんですけど、
それを竜三には見せず、お清が読んだ上で、
破り捨ててしまってるんですね、何通も。

それで、先ほどは、
「ウソをついた」と書きましたけど、
実際は、ただ「ウソをつく」なんていう、
そんな程度の軽いことじゃなくって、
息子の人生行路に介入して、
お清の思いどおりに、
息子の人生そのものを「操ろうとする」、
たとえ神様であっても「してはならない」、
禁断の行為・・・というか、その罪は、
重罪も重罪、とにかく、極悪と思います。

さて、「おしん」の165話では、
お清が、高倉浩太から竜三宛の手紙、
あの、おしんからの手紙じゃないんです、
高倉浩太からの手紙を開封して、
読むんですよね、もちろん、その手紙を、
竜三には「見せません」。

こうなりますと、息子の竜三は、
母親のお清にとって、
「独立した一個の尊厳を持つ人間」では、
「ありません」よね、
お清の「私物」です ・ ・ ・ 完全に。

そして、166話でお清が竜三に言います。
 「まだ、おしんに未練があるのか?
 おしんが、どうしているのかも知らないで。

ところが、竜三がその話を信じないので、
重ねて言います。
 「おしんはね、
 他の男と一緒になるつもりだよ。」
 私の言うこと、信じないのか?
 根も葉もないことを言っているのではない。
 おしんと一緒になりたいと言う男から
 来た手紙だ。お前に、見せなくてすむなら、
 見せたくはなかったよ。」

竜三 : 「これは、
 俺宛てに来た手紙じゃないか?」
お清 : 「酒田から来た手紙だから、
 どうせおしんのことに
 違いないと思ったんだよ。
 ロクでもないことを言ってきて。」
大五郎(竜三の父) : 「お清!」
お清 : 「それくらい、
 気をつけなかったら、
 母親なんて務まりませんよ。
 竜三が、おしんと雄を
 捨てると言うなら、その男が
 面倒を見ると言っているんですよ。
 どうせ、おしんのことだから、
 とっくに面倒をみて
 もらっているんじゃないですか?
 1年以上も経ってから、しかも、
 男から籍を抜けと言わせて、
 おしんが知らん顔なんてワケが
 ないでしょう」
竜三 : 「おしんは、俺に
 何度も手紙を書いたと言っている。
 おしんの手紙も、お母さんが?」
お清 : 「冗談じゃない、
 よこしもしないもの、どうして私が。
 どうせ、おしん
 自分に都合の良いこと、
 その男に言っているんだろ。
 いくら手紙を出しても、
 亭主から返事がないと。男は、
 お前に捨てられたと思っているでしょう。
 おしんのつきそうなウソだよ。
 そうじゃなかったら、雄まで連れて、
 女子一人で出て行かないでしょう?
 お前も、これで
 おしんの本性を読めたでしょ?
 目を覚まして、
 お前は、これからのことを。」

そうですねえ、お清のウソは、
ウソというにはあまりにも魔的で、
ですから、今日の標題を、
「他人の人生操作の魔境」としました。
「自分の思いどおりに」、
他人の人生を操るってことは、
私の感覚では、地獄の魔人の仕業です。

「その場限りの虐待」と比べて、
程度も大きいですけど、
程度の大小とは根本的に異なる基準で、
「質的に」もう、完全に「魔界」です、
他人の人生を操ることは ・ ・ ・