人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

自分の幸せが他人の幸せ

自分が毎日楽しく居られるってこと、
そして、自分が幸せだってことは、
「他の人のためになる」んだと、
おしん」を見て思いました。

連続ドラマ「おしん」の佐賀編を、
私は「見てられなく」なりまして、
最近は、放送を録画しておいて、
一日分の放送を「何回にも分けて」、
「ちょっとずつ」見てるんですが、
それは、心理的につらくて、
「見てられなくなる」シーンが、
いっぱいだからなんです。

それで、気持ちが苦しくなったら、
今まではスイッチを切ってましたが、
それでは「見られなくなる」シーンが、
多発するんですけど、録画しておけば、
時間がたって、少し「落ち着いてから」、
次のシーンを部分的に何回にも分けて、
見ることができます、心理的に何とか。

昨日、9月11日の再放送141話で、
わかったことがあります。
お清の心理のことなんですけどね、
お清は言います。
「篤子や赤子にもしものことのあっぎ、
 おしんが殺したとよ」
 
篤子(お清の娘)が難産のシーンで、
理知的に考えて、当然ですが、それ、
おしんの責任のはず、無いですよね。

お清は、重ねて言います。
 「なし、篤子が
 こがん苦しまんばならんと! 
 みんな、おしんのせいたい! 
 お前が、あがんおなごば、
 連れてきたけん!」
 
あの ・ ・ ・ もう、感情一辺倒で、
理性的判断が皆無、皆無ですよね。

でも私、それが人の心というもので、
不満や怒りがあったら、苦しくて、
その苦しみを紛らわせる為だったら、
「他人に当たる」ってことは、
普通に見られることだと思います。

それでお清は、
どんなにひどく扱ったとしても、
「自分が安全に居られる」相手、
それがつまり、おしんですけど、
おしんを攻撃し、虐待し、
これでもかこれでもかといじめ抜いて、
「自分の苦しい気持ち」を、
何とか紛らわそうとするんでしょう。

そういうの、お清だけじゃなく、
「誰だって」同じことなので、だから、
姑の嫁いびり、夫による妻いじめ、
親による子の虐待なんてことが、
世の中に絶えないのだと思います。

でも、自分が楽しく暮らすことができ、
幸せな心境だったとしたら、誰だって、
他人を攻撃したりしないわけですから、
「自分が楽しく幸せ」ってことなら、
他の人と良い人間関係が結べるわけで、
だから、「自分の幸せ」ってことは、
「他人の幸せ」にも通じると思います。