人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

自分を殺して生きのびる

昨日から今日にかけての台風被害、
全くひどいものがありましたね。
私のところも危険区域なので、
心配してたんですけど、天災は、
「どうしようもない」面があり、
でも、せめて、「人災」だけは、
なくしたいところですけど、
まあ、人間がすることの中には、
「人を不幸にすること」が、
たくさんあるんですよね。

たとえば、人を支配することは、
支配される人を不幸にしますけど、
結局のところ、
支配する人も不幸にするんですが、
なぜそうなるかを書くことは、
また別の機会にしたいと思います。

さて、支配される状況に置かれ、
圧政下で生きのびるためには、
「自分を殺す」ってことが、
よく行われるかなあと思います。

その「自分を殺す」という意味は、
自殺して命をなくすことではなく、
体は生命体として生きのびるんですが、
「心を殺す」っていうことなんです。

このブログでは、「奴隷になる」とか、
「ロボットになる」、あるいは、
「操り人形になる」ってことの例を、
数日前に書きましたけど、要するに、
支配者に対して自分を明け渡し、
これ以上虐げられない対応策をとって、
命だけは守っていくということですね。

そういう形態が発生する状況というのは、
親子、夫婦のように、個人対個人の場合、
自分を「支配する」相手がいて、
その相手が、私の人生を自由に操りたい
 ・ ・ ・ という欲求が強烈な時ですね。

だいたい、相手を操り、支配する人って、
相手の気持ちに対する配慮なんてものは、
最初っから「無い」わけでして、
とにかく相手を威圧したり脅したり、
あるいは、ウソをついたりだましたり、
もっと巧妙な手口になりますと、
相手に罪悪感を持たせるなどして、
自分の思いどおりに操ろうとするわけで、
まあ、私にいわせれば、
悪魔の心情ですね。

でも、自分を支配する相手が強者で、
その相手に頼らなければ生きていけない、
弱い存在が自分だったとすれば、
たとえ自分を主張しても、その主張は、
「受けいれられない」だけでなく、
自分を主張することそのものが、
「相手に対する反抗、反逆」とみなされ、
生きていけない状況に置かれてしまう、
その恐怖から逃れて生きのびるためには、
「自分を殺す」以外に無いわけですね。

でも、この、「自分を殺す」ってことは、
生命体にとっていちばんむごいことで、
そのむごいことを、
自分自身に対して行わなければならない、
その悲惨さというものは、
とても表現しきれない残酷さですね。

まあ、今日は、これまでとしまして、
続きはまた次回に。