人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

健全な自分という幸福

前回、自分の子どもに
「損害賠償」させるって話、
書きまして、じゃあ、
どういう形で損害賠償させるのか、
書きたいんですけどね、でも今は、
どうしてそんな気持ちになるのか、
「親の気持ち」について、
想像したことがありましたので、
そっちのほうを先行して書きます。

あの、中学時代を、
親戚の家で過ごしたという人が、
知ってる人の中にいまして、
その人の話では、親戚の人って、
とても冷酷だったそうです。

その人って、親戚の家にとっては、
「厄介者」だったからでしょうけど、
それで私、推測したことがあります。

あの、自分の子に冷酷な親って、
つまり、自分の子が「厄介者」、
そうなんですね、まさにじゃま者で、
じゃあ、なんでじゃま者なのか、
それは、親の目から見れば、
「怒りを発する相手」だからだと、
私は考えました。

では、なぜ親が「怒るのか」?
それは、子どもというものは、
親を頼りにするしかない存在で、
だから、親に対して、
おっぱいちょうだいとか、
オムツが濡れて気持ち悪いとか、
大きくなっても、あれして欲しい、
これして欲しいって「要求する」、
まさに、親に対して、
「要求する」存在だってことで、
でも、そのことに怒りを発する親が、
いるんですよねえ。

じゃあ、なぜ怒っちゃうの?
これは、私の推測に過ぎませんけど、
自分(怒ってる親)は子どもの頃、
「してもらえなかった」という痛み、
強烈な心の痛みが心の奥にあって、
その痛みは、大人になってもまだ、
癒えないままに心の中に潜んでいて、
 ・ ・ ・「自分が癒されたい」のに、
この子(自分の子)は、
そんな親の心の痛みを知ろうとせず、
「自己中心に」親に対して、平気で、
「要求ごとをする」というその態度、
その「わがまま」が許せないって、
あの、本来は自分の親に対する怒り、
その怒りを「わが子にぶつける」、
そういう図式になってるのかなあ?

そして、相手がわが子ではなく、
親戚から世話を頼まれた子だったら、
よけい、その子はじゃま者ですよね。

まあ、これ、想像に過ぎませんけど、
言えることは、まず必要なことって、
親自身が、
「心の痛みから解放される」ことで、
人は誰も、「自分が苦しい」時って、
「他人のことまで」は、
気遣いできないんですよね。
あの、ここで言う「他人」には、
「自分の子」も含まれます。

 ・ ・ ・ ってことで、この続き、
そのうち書ければと思いますが、
「自分の心が平和で苦しみが無い」
ってことは、まあほんとに、
ものすごく幸せなことだと思います。