人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

遠藤周作を読んで(第8回)

加藤宗哉の「遠藤周作」という本に、
おおむね次のような記述があります。
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遠藤周作が身近へ置いた一枚の写真がある。
母親の郁が和服姿でヴァイオリンを右脇に抱えている。
周作はこの写真を、普段は自宅と仕事場の書斎に、夏は軽井沢の山荘の食堂の棚に、海外に出かけた際はホテル部屋の机に、そして晩年の闘病生活では病室の枕元に置いた。
俗に言う母親コンプレックスを、本人も否定はしなかった。
外で酒を飲んだり悪事をはたらいたりして帰ってくれば写真のなかの母は叱りつける顔になり、書斎で仕事を懸命にこなせば穏やかな顔になる。
同じ写真なのに表情が変わる。
壮年になっても母の顔色を気にかけ、母を怖いと感じたのは、自分がつねに「母を良心の規準にしているから」と明かした。

私としては驚きの心理ですけど、
「自分の知ってることや体験」こそ、「地球」に対して大地を「針の先で突いた跡」にも及ばない、微小極まるものですからね、
「ああ、そうなんですか! 
そういうことがあるんですね。」
・・・って言う他ありません。

それで、改めて思いました、
「私」って、何? ・・・と。
さらに言えば、「私」って、在るの?

なぜかと言えば、加藤宗哉の本に書いてあるとおりだったら、
遠藤周作には、「遠藤周作自身」ってものがあるんだろうか?
・・・って疑問が起きたからです。

ああ、それよりもですね、
「自分自身」というものは、
「他人の影響」をものすごく受けているんだ
・・・っていうのが、正確な見解かも知れません。

そして、人間関係は、
(1)相手を強力に支配し、束縛するレベルから、
(2)相手の自由を尊重し、協調するレベルまで、
度合いがいろいろなんじゃないかと思いまして、
次回はそんなことも書いてみたいです。

もちろん、(1)の関係で支配されたとしたら、
人間関係に喜びは感じられませんよね。

遠藤周作を読んで(第7回)

遠藤周作の小説に、
次のようなシーンがあります。

それは、母のヴァイオリン演奏会の情景なんですが、
人影のない廊下の椅子に一人腰掛け、
壁に向き合っている父の姿が描写されていて、
「その時の父のうしろ姿には、
 だれからも相手にされない、
 寂しそうな翳があった。」
・・・と書いてあります。

あの、「妻の演奏会」なのに、
妻の舞台を見るのを避けて、
一人、廊下の壁に向かって座る夫・・・なんて、
なんか、哀れすぎる感じがします、私は。

もし仮に、仲良し夫婦だったとしたら、
夫は「客席で聴く」などというヒマがなく、
演奏会運営のスタッフとして、
「陰の力」を発揮して働くと思うんですけどね。

では、妻の身になってみればどうでしょうか?
夫は、自分の演奏会を「聴いてくれない」し、
当然、演奏会の「手助けしてもくれない」んですよね。

そういう夫と妻って、
「形式上は」夫婦だけど、実態は、
「人間関係が成立してない他人」じゃないかと思いました。

今日はただ、世の中には、
そういう夫婦もいるし、さらにもっと言えば、
親子としていっしょに暮らしながらも、
心理的には「赤の他人同様」の親子関係もあり、
また、いっしょに住む家族でありながら、
人間関係も心のつながりも皆無という例があることを、
私は見聞してますってことだけを書いて終わります。

もう一つ最後に、
小説の主人公である子どもは、
「壁に向き合っている父」とは、
「心の面で何もつながっていない」ってことを感じました。
そうですねえ、主人公である子どもにも、
主人公の母にも父にも、
「幸福感」はないだろうと思いました。
なにしろ、
「温かい人間関係」が成立してないんですから。

遠藤周作を読んで(第6回)

テレビで昔の映画「旅情」を見たことがあります。
ヒロインのジェーンは、旅行先のベネチアでレナードを好きになってしまいますけど、彼と過ごすうち、レナードは結婚していて、息子もいることを知るんですね。

ジェーンは休暇が終わると、レナードとの交際を絶ってアメリカに帰るわけですが、私としては、二人の恋を成就させてあげたかったです。

遠藤周作の「影法師」では、「結婚してはいけない」牧師が、禁を破って結婚しますけど、私の気持としては・・・ですねえ、
「自分の気持を否定」しなければならないような状況は、
不幸だと思うんです。

そしてまた、好きな人や恋しい人がいたなら、
いっしょに居たり、いっしょに活動することって、
すごい喜びだと思います。

そうですねえ、だから、
「好きな人がいる」って、すごく喜ばしいことだし、
好きな人と「いっしょに楽しめる」って、
すごく幸せなことだと思うことです。

遠藤周作を読んで(第5回)

「孤独な翳には、
 それまで自分たちの芯の芯まで支えていたものから
 追放されたもの」・・・という文章が、
「影法師」という小説の中にあります。

「追放」って言葉が気になりますね。
たぶん、神父たちの共同体からの追放であり、
「信仰の人」という「自己価値観」を失うことでもあるかなと、
そんな想像をしますけど、
どうも・・・疑問点があります。

「自分の欲求」に従って結婚したんでしょう?
・・・だったら、
結婚した相手との喜ばしい日々があるんじゃないの?
二人の幸福な心の交流があるんだから、
「孤独な翳」なんか、あるはずないじゃないの?

まあ、私はキリスト教のことを分からないし、
信仰する人の心境なんてまるで知らずに書いてますから、
的外れかもしれませんけど、
「結婚する」と決めて実行したのなら、
神父の地位を維持したい欲求とか、
戒律を厳守して褒められたい気持ちから自由になって、
「二人の喜びの人生」を楽しめばいいんじゃないの?
・・・って思うわけですね。

でも、小説では、なんかそんな雰囲気ではないし、
ですから、続きをまた次回に書きます。

遠藤周作を読んで(第4回)

キリスト教のことを知らない私でしたが
「影法師」という小説を読んで、
神父というものは、女性と関わったり、ましてや、
結婚なんて「できない」立場なのだと知りました。

あの、キリスト教徒の方にはごめんなさい、
私には、男が女性を求めたり、
女が男性を求めることって、
「良いことじゃないか」って思われるんです。

「母なるもの 」という小説には、
かくれ切支丹の村で見た修道女が登場し、
「生涯を独身で奉仕に身を捧げる」と書いてありましたが、
・・・まあ、その人が自ら選んだ人生なので、
他人がとやかく言うことはできないわけですけど、
神父や修道女の道を選ぶなんてことは、
私にはできそうもありません。

ですからここにも、
「私の知らない世界、理解できない生き方」って、
厳然として「ある」わけで、
もちろん、
「自分が理解できない」ことだから「ダメ」っていうんじゃなく、
自分には「理解できない世界」や「価値」があるんだろうってことで、
だから、「自分が考えている世界」って、
ずいぶん限定的で狭いものなんだと思うことです。

でも、異性を好きになることが禁じられる立場には、
私なら、なりたくないですね。

ということで、
自分は井の中の蛙だってことがよく分かったことですが、
「影法師」という小説には、
結婚した神父が登場しますから、
次回はそういうことに関連して感想を書きたいです。

遠藤周作を読んで(第3回)

前回の続きです。
「私のほんとうの心を知らず」って、
少年が恋した少女のことが、
小説中に書かれています。

その少年は、
彼女に「ひどい言葉」を掛けるんですから、
そういう「ひどいことを言う少年」が、
「自分に恋しているんだ」・・・なんて、
彼女が思うわけ、ありませんよね。

少年が彼女に「ひどいことを言った」にもかかわらず、
彼女に対しては、
「自分の恋心を分かってほしい」と思っている少年、

それ、どういう思考回路から考えられるんでしょうか?

その上、少年は、「恋する彼女」のほうに向かって、
「石を投げる」んです。
・・・それはもう「攻撃」でして、
あの、「恋しい少女」を攻撃しちゃってるわけで、
少女の立場からしたら、相手は「狼」ですよね。

そういう狼が、
「自分に恋い焦がれてるんだ」なんて、
考えられるはず、ないじゃないですかねえ、
少女にとっては。

「相手を大切にするのが幸福の出発点」
と題した前々回のブログで、
バレエ「ラ・バヤデール」のことを書きましたけど、
ニキヤを好きになってしまった大僧正は、結局、
「ニキヤの幸せを願う」行動はできませんでした。

遠藤周作「初恋」の主人公も、
彼女を激しく恋していながら、
結局、彼女を痛めつけちゃうんですよね・・・

続きは次回にしますけど、
どう考えても、
「自分にひどいことをする相手」が、
自分のことを好きだからそうしてるんだ・・・ってこと、
「わかって欲しい」と言われても、
「わからない」と思いますね。

・・・そんなこんなで、世の中、
「結局、本当のことはわからない」っていうのが、
正しい認識のしかたであろうかと思いました。

付け加えますと、裁判だって、
「判決が出た」としましても、
それは、
ほんとうのことが分かったということではない
・・・わけですからね。

遠藤周作を読んで(第2回)

「初恋」という小説で、小学三年の少年が、
同級生の少女を好きになりまして、
彼は煩悶の末、ついに決心して、
彼女に声をかけるわけですが、何と、
「彼女を傷つける」言葉を言っちゃうんですね。

・・・で、小説にはこう書いてあります。
「それが私の愛の言葉だった。
 心とは全く裏腹のこの言葉を、
 百米先に歩いている彼女にかけることで
 自分に関心をひこうとしたのである。」

いやあ、私には全く理解不能です、わかりません、
困惑の極みです。
前回、「その人の立場に立ってみれば理解できる
・・・っていう考えは誤りだ」というようなこと、
書きましたけど、その一例です。
他の人の心情で、
私には想像もできないびっくりするようなことって、
あるものなんですね。

「自分の考え」や「自分の世界」だけではない、
思いもよらないことが存在するんだということを、
心に留めておかなくちゃ・・・と思いました。

続きはまた次回に。