遠藤周作を読んで(第5回)
「孤独な翳には、
それまで自分たちの芯の芯まで支えていたものから
追放されたもの」・・・という文章が、
「影法師」という小説の中にあります。
「追放」って言葉が気になりますね。
たぶん、神父たちの共同体からの追放であり、
「信仰の人」という「自己価値観」を失うことでもあるかなと、
そんな想像をしますけど、
どうも・・・疑問点があります。
「自分の欲求」に従って結婚したんでしょう?
・・・だったら、
結婚した相手との喜ばしい日々があるんじゃないの?
二人の幸福な心の交流があるんだから、
「孤独な翳」なんか、あるはずないじゃないの?
まあ、私はキリスト教のことを分からないし、
信仰する人の心境なんてまるで知らずに書いてますから、
的外れかもしれませんけど、
「結婚する」と決めて実行したのなら、
神父の地位を維持したい欲求とか、
戒律を厳守して褒められたい気持ちから自由になって、
「二人の喜びの人生」を楽しめばいいんじゃないの?
・・・って思うわけですね。
でも、小説では、なんかそんな雰囲気ではないし、
ですから、続きをまた次回に書きます。