人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

遠藤周作を読んで(第3回)

前回の続きです。
「私のほんとうの心を知らず」って、
少年が恋した少女のことが、
小説中に書かれています。

その少年は、
彼女に「ひどい言葉」を掛けるんですから、
そういう「ひどいことを言う少年」が、
「自分に恋しているんだ」・・・なんて、
彼女が思うわけ、ありませんよね。

少年が彼女に「ひどいことを言った」にもかかわらず、
彼女に対しては、
「自分の恋心を分かってほしい」と思っている少年、

それ、どういう思考回路から考えられるんでしょうか?

その上、少年は、「恋する彼女」のほうに向かって、
「石を投げる」んです。
・・・それはもう「攻撃」でして、
あの、「恋しい少女」を攻撃しちゃってるわけで、
少女の立場からしたら、相手は「狼」ですよね。

そういう狼が、
「自分に恋い焦がれてるんだ」なんて、
考えられるはず、ないじゃないですかねえ、
少女にとっては。

「相手を大切にするのが幸福の出発点」
と題した前々回のブログで、
バレエ「ラ・バヤデール」のことを書きましたけど、
ニキヤを好きになってしまった大僧正は、結局、
「ニキヤの幸せを願う」行動はできませんでした。

遠藤周作「初恋」の主人公も、
彼女を激しく恋していながら、
結局、彼女を痛めつけちゃうんですよね・・・

続きは次回にしますけど、
どう考えても、
「自分にひどいことをする相手」が、
自分のことを好きだからそうしてるんだ・・・ってこと、
「わかって欲しい」と言われても、
「わからない」と思いますね。

・・・そんなこんなで、世の中、
「結局、本当のことはわからない」っていうのが、
正しい認識のしかたであろうかと思いました。

付け加えますと、裁判だって、
「判決が出た」としましても、
それは、
ほんとうのことが分かったということではない
・・・わけですからね。