凶悪な人間の問題
相手が「喜べるように」
「私が」行動するってことは、
すごく「相手のことを思う」ことであって、
自分が相手に無償奉仕することでもありますから、
そんなふうにできるためには、私が、
「相手を信頼できる」って気持がなければ、
できないと思うわけでして、ですから、
相手が私から「奪おう」とする人間だとか、
私を「攻撃する」ような凶悪な人物だったら、
相手に喜んでもらおうなんて気持ちには
なれませんよね、初めっから。
「私が」行動するってことは、
すごく「相手のことを思う」ことであって、
自分が相手に無償奉仕することでもありますから、
そんなふうにできるためには、私が、
「相手を信頼できる」って気持がなければ、
できないと思うわけでして、ですから、
相手が私から「奪おう」とする人間だとか、
私を「攻撃する」ような凶悪な人物だったら、
相手に喜んでもらおうなんて気持ちには
なれませんよね、初めっから。
まあ、でも、例外もありまして、
私の体験ですけど、とっても大好きな人がいて、
私はその人のためなら、
いっしょうけんめい尽くそうと思ったことがあり、
たとえ、その人が私にひどいことをしようと、
そんなこととは全く無関係に、
「たとえ自分がひどくされても」
その人に至誠を尽くそうと思ったこと、
ありましたね。
私の体験ですけど、とっても大好きな人がいて、
私はその人のためなら、
いっしょうけんめい尽くそうと思ったことがあり、
たとえ、その人が私にひどいことをしようと、
そんなこととは全く無関係に、
「たとえ自分がひどくされても」
その人に至誠を尽くそうと思ったこと、
ありましたね。
・ ・ ・ あの、それ、すごく良い思い出だし、
そういう気持ちになれたの、今でも、
良かったなあと思っています。
ああ、でも、今日書きたいのは、
「ひどい相手」や「凶悪な相手」だったら、
その人といっしょに楽しく過ごそう
・ ・ ・ なんていう気持ちには、
なれませんよねっていうことなんです。
「ひどい相手」や「凶悪な相手」だったら、
その人といっしょに楽しく過ごそう
・ ・ ・ なんていう気持ちには、
なれませんよねっていうことなんです。
人は、他の人といっしょに
喜ばしく生きたいし、そのためには、
相手に対して「自分自身を開く」ってことが
必要だと思います。
喜ばしく生きたいし、そのためには、
相手に対して「自分自身を開く」ってことが
必要だと思います。
そして、自分自身を他の人の前に開放し、
いっしょに楽しく過ごしましょうって、
そういう態度で自分自身を発揮するためには、
自分のそういう気持ちを
相手に「受け取って」もらえるし、
同調してもらえるってことが必要だと思います。
いっしょに楽しく過ごしましょうって、
そういう態度で自分自身を発揮するためには、
自分のそういう気持ちを
相手に「受け取って」もらえるし、
同調してもらえるってことが必要だと思います。
それで・・・ですね、心が優しく、
温かい心情の人っていうのは、
凶悪な人間にとっては
「攻撃しやすい人」であり、
その人から奪うことができる「カモ」というか、
おだやかな人は犠牲者になりやすいんですよね。
温かい心情の人っていうのは、
凶悪な人間にとっては
「攻撃しやすい人」であり、
その人から奪うことができる「カモ」というか、
おだやかな人は犠牲者になりやすいんですよね。
ですから、心優しく、温かく、
おだやかな人が、その人の本性を発揮し、
まさに、その人自身を発揮して生きるためには、
周囲の人が凶悪人間ではないという条件が
必須だと思う私です。
おだやかな人が、その人の本性を発揮し、
まさに、その人自身を発揮して生きるためには、
周囲の人が凶悪人間ではないという条件が
必須だと思う私です。