人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

人間関係は喜びですね

他の人に「喜んでもらえるように」
っていう気持ちで行動しますよね。

ですから、プレゼントする時でも、
「自分が好きなもの」を、
相手に差し上げようとすることが、
多いかなあと思うんです、
自分のことを考えてみてもですね。

まあ、でも、「好み」っていうのは、
人それぞれで、「自分は好き」でも、
相手の人は好みじゃないってことも、
普通にあることですし、
「相手の好意」はわかるんですけど、
自分には「要らないもの」を、
いただくこともありますからね、
しかし、「相手の気持ち」は、
ありがたいことだと、感謝ですね。

そんなわけで、相手の気持ちは、
「自分に対しての好意」で、
そんなふうにしてくれるわけですから、
少なくとも、私に「害が及ぶこと」を、
相手がするはず、ありませんよね。

ですから、相手の行動は、
全面的に「相手に任せて」、
相手に注文なんかつける必要なく、
相手と安心して交際できるわけです。

もっと言えば、自分自身を、
「相手に委ねる」ことだってできます。
もちろんそれ、相手は、
「私が喜べるように」と考えて、
私に対して行動してるわけですからね。

まあ、言葉を換えて言えば、
相手に対する信頼があるってことで、
人間関係っていうのは、
「相手に対する信頼」によって、
成り立ってるわけですね。

それで、人と交流すること、
人といっしょにいることが楽しいし、
喜びとなるわけですよね。

つまりそれ、人間関係の喜びであって、
このブログのテーマでもあります。

都合の良い人間

「自分の都合が良いように」
他の人が動いてくれたら、
とてもうれしいって感覚は、
他人を奴隷にしたい心情と共に、
悪魔的なものを含む場合も、
あったりすると思う私です。

まあ、片思いの相手がですね、
自分のことを好いて欲しいというのは、
別に、悪魔的でもなんでもなくって、
あたりまえの心情ですけどね、でも、
だからといって、相手の気持ちが、
「自分に向くように工作する」のは、
ちょっといきすぎだと思う私です。

私の場合でしたら、
私を好いてくれるかどうかは、
「相手の気持ちしだい」ですからね、
それはどうしようもないことで、
もちろん、私を好いてくれるなら、
これ以上うれしく、
幸福なことはないんですけど、しかし、
私が相手の気持ちを左右することは、
「できない」し、さらに、
「してはいけない」と思いますし、もし、
相手の好意が得られなかったとしても、
その人を「好きになれた」ことの喜びを、
楽しみたい私ですが、
今日書きたいことは恋心のことではなく、
相手が、
「自分の思うように」動くことを求める、
そういう気持ちっていうのは、
悪魔的な面があるということなんです。

あの、幸福に暮らしていて、
心が健全な人っていうのは、他の人が、
「自分の思いどおりに動くこと」など、
「求めない」んですよね。

そのことを反対の面から言えば、相手が、
「自分の思いどおりになる」ことを、
欲求してしまうという気持ちは、
健全な心ではないってことでして、また、
その人に不幸な面があるからこそ、
そうした気持ちが起こってくるだろうと、
私は思うんです。

そして、自分にとって、相手が、
「都合の良い人間」であること求める、
その悪魔性については、
そのうち書きたいと思いますが、次回は、
「心が健全で幸福な人」は、なぜ、
相手が自分にとって、

「都合の良い存在」であることを、
求めないのかと言った点について、
私の考えを書いてみたいと思います。

奴隷を求める魔的快感

人を好きになれること、また、
人を愛することができることって、
それはもう、ほんとに幸せの源だって、
つくづく、私は感じることです。

なぜなら、人を好きになれないとか、
愛することができないっていう人間が、
現実に、世の中にいるからでして、
そういう人の不幸って、日常的に、
目にすることがあったりするからです。

さて、テレビドラマの一場面ですけど、
記憶にあいまいなところもありまして、
でも、女王とか、女王じゃなくても、
とにかく、権力者を持つ女性に対して、
臣下が貢物を贈るシーンなんです。

一人の男が、女王専用の奴隷として、
貢物にされます。
贈った人物は、女王が彼に対して、
どんなことをしても自由だと言います。
まあ、女王は、その奴隷に対して、
生殺与奪の権を持つというわけですね。
ドラマの筋書きでは、女王が、
その貢物を受け取らなかったように、
記憶してるんですけどね。

それで、「奴隷の貢物」をする理由は、
贈り主にすれば、その貢物がものすごく、
女王に喜ばれるだろうという目論見で、
それは、つまり、人間というものは、
「自分専用の奴隷」がいたらうれしいと、
人の気持ちを確信しているからであると、
私は思いました。

あの、それって。
「人の本心」かもしれないですけどね、
でも、現実問題として、人間を、
「自分専用の奴隷にする」なんてことは、
社会通念上、許されないことなので、
そういう欲望は、意識に上る前に、
自主規制しちゃうってことなのかなあ?

まあ、とにかく、誰か一人の人間が、
「自分の思いどおりに動く」ならば、
すごい喜びかも知れませんけど、でも、
そういう気持ちって反社会的なので、
「自分専用の奴隷がいたらうれしい」
 ・ ・ ・ なんて、たとえ本心でも、
「言えない」ですよね、社会的に。

でも、でも、考えてみて下さい、
相手が乳幼児とか子どもだったら、
「自分専用の奴隷」に仕立て上げること、
可能じゃないですか?

あの、源氏物語の紫の上のことですけど、
光源氏は、幼かった頃の彼女を拉致して、
いわば、自分専用の女性に仕立てようと、
もくろんでいたと思うんですが、それは、
私が源氏物語を見ての感想で、
「奴隷」と表現するのはキツイですけど、
光源氏の気持ちの上では、紫の上を、
「自分専用の奴隷」にしたかったのだと、
ああ、こんなことを書きましたら、
すごいお叱りを受けるかも知れませんが、
「妻」という立場にあった紫の上なので、
奴隷という感覚など無かったでしょうし、
二人の愛の物語みたいに見えますけどね、
でも、彼女のことを、光源氏は、
「思いどおりの女性」に仕立てたかった、
そのことは事実ですから、私としては、
二人の関係を喜べないものがありますね。
「結果」としては良かったとしても、
光源氏の「動機」は、賛成できません。

同じことですけど、親がですね、
子どもの学歴などのために努力しても、
それが「親自身の欲望」のためであって、
子どもに無理を要求してるんでしたら、
たとえ結果が良かったとしてもですね、
親の動機として、賛成できないどころか、
そういう親はダメであると、
ハッキリ言いたいし、そういうことでは、
親子とも、幸福ではないんですよね。

まあ、子どもが親の願いどおりに、
うまくいった例はあるんですけどね、
その反対に、子どもが、
親の思いどおりにならなかった上に、
自分の人生をダメにしてしまった例を、
私は、何人も見てますし、また、
そういう話をよく聞くことです。

虐待が溺愛に見える時

人を好きになれるって、
とってもすばらしいことで、
あの、何よりも、
人を好きになってる「自分の状態」が、
すごく幸せなんですよね。

でも、世の中には、
「人が好きになれない」人間が、
いるみたい ・ ・ ・ と言うよりは、
「いるのは確実」だと思う私でして、
それは、世間のいろんな人間関係を、
当事者としてではなく、客観的に、
「他人の目」から見られる立場なら、
他人事だからこそ、人間関係の真実が、
的確に見えちゃうのかも知れません。

さて、祖母と孫との関係なんですが、
祖母が孫を「嫌ってる」情況なのに、
その孫を自分の手元に置いて確保し、
自分専用の人間として囲い込み、
他の家族との人間関係を持たせずに、
一から十まで世話を焼くって事態が、
世の中には、実際にありましてね、
あの、テレビドラマ「おしん」の、
佐賀の姑であるお清も、おしんから、
孫を奪って「自分のものにしたい」、
そういう気持ちが描かれてましたね。

あの、私はですね、
ドラマのお清にしても、彼女は、
「孫に対する愛情」のために、
孫を手元に置くのではないってこと、
確信があります。

なぜなら、孫に対する愛情が、もし、
本当のものだったら、孫と母親が、
「幸せに暮らせるように」図るのが、
当然だからなんです。

したがって、もう絶対、
孫と母親(おしん)を分離するなど、
「するはずない」んですよね、もし、
「孫に対する愛情」があったならば。

さて、そうなるとですね、誰でも、
疑問に思うことがあると思います。
孫を「嫌ってる」としたら、わざわざ、
手元に置いて世話する理由って、
何なの? ・ ・ ・ ってことですね。

それで、私の推測というより、確信で、
「嫌いな人間(孫)」だからこそ、
思う存分に、容赦なく「虐待できる」、
それが、隠された理由だと思うんです。

特に ・ ・ ・ ですね、
姑としての自分が、「嫌悪」する嫁、
その大嫌いな嫁の子だとしたら、もう、
「思う存分」いじめ尽くせるという、
今日はまあ、ひどいことを書きますが、
でもそれ、的確な見方だと思います。

しかも、しかもですね、
「表面的には」溺愛するフリをして、
超絶的な巧妙さで虐待を隠蔽しちゃう、
魔性の祖母っていうのもいるんですね。
前回、孫を「溺愛してた」みたいに、
家族からも世間からも思われてた祖母が、
孫に恨まれて殺された事件のこと、
ちょっと触れましたけど、その場合も、
孫に対する「虐待」が続けられたのは、
もう、事実なんですけどね、でも、
「それは虐待である」という認識が、
当時は「無かった」んだと思います。

あの、話題が暗すぎましたから、
次回、この続きが書けるかどうかは、
今のところ、わかりません。

愛してるという錯覚

前回、「他人に対して」、
肯定的な気持ちのことを書きまして、
また、そういうふうですと、
自然に「良い人間関係」になるって、
書きましたけどね、
そのことを「反対の面」から見れば、
「他人に対して否定的」だと、
人間関係は悪くなると思います。

さて、世の中には、
相手のことに「介入する人」って、
いるんですよね。

まあ、大人の場合は、
他人から介入された場合、
嫌だったら相手と交際を切るという、
最終手段がありますけど、たとえば、
「子ども」と「養育者」の場合、
養育者から介入され、支配されても、
養育者から逃れる手段が無いわけで、
悲惨なことになると思います。

「親」と書かないで、
「養育者」としたのは、祖母がですね、
孫を「自分のもの」として独占し、
「世話を焼く」という美名の下に、
孫をペット化し、奴隷状態に置く例が、
世間には、時々見られるからでして、
昔、祖母の支配を受けつつ育った子が、
高校生になって祖母を殺し、
自分も自殺した事件があったからです。

そして、そういうことを書く理由は、
その祖母と孫との関係をですね、
孫を「溺愛してる」というふうに、
とんでもない誤解をしてたってことで、
また、祖母も、「孫を愛してる」と、
錯覚してたと思うんですね。

でも、私の感覚では、それは、
「愛してる」んじゃなくって、実は、
「嫌ってる」んだと思いますし、
別の言い方をすれば、孫に対して、
「否定的」なんだと思いますけど、
まあ、そういう内容について、
次回も続けて書きたいと思います。

気分が良いという幸せ

ほんとに久しぶりに今朝は晴天で、
でも、天気とは関係なく、
気分がいい今朝になりましたが、
それで思いましたことは、
感情的に良い情況にあるってことは、
とっても幸せなことだということです。

気分がいいって状態のときは、
「自分に対して」肯定的ですけど、
それは同時に、
「他人に対して」肯定的ってことで、
だから、自動的に「良い人間関係」が、
「そうしよう」なんて努力無しに、
できちゃうんですよね。

そうですねえ、「良い人間関係」は、
理想の状態だからといって、
「意図して」とか「無理して」、
良い人間関係に持っていこうとしても、
結局、その副作用というか、
弊害が出ることになりますからね、
ですから、自然に、
「気分いい」自分になれてるってのが、
「幸せな時」だと思う私です。

虐待だけど溺愛に見える

親が子どもを溺愛するとか、
祖父母が孫を溺愛するなんてことは、
世間でよく聞く話だと思いますけど、
でも、それが、「愛情」じゃなくって、
実は、「虐待」になってるようなこと、
現実にあるんだってことでして、でも、
そういう話は、あんまり悲惨ですから、
今日はちょっと、書く気になれませんが、
そんなことを話題にする理由を言えば、
昨日まで書いてきたトップヲタだった人、
彼女の電話番号を聞いて、まあ、結局、
「断られた」んですけどね、じゃあ、
極度のショックを受けるかと思ったら、
「そうじゃない」自分だったそうでして、
そういう自分にショックを受けたと、
彼は言ってましたね。

ですから、人というものは、
「自分の気持ち」だと信じていても、
そうじゃなことがあるんだってことで、
全く不思議、不思議ですけどね、
「自分の本心」は、
自分が思ってることとは正反対だった
 ・ ・ ・ なんて、ミステリアス、
ミステリアスもミステリアス、でも、
「ミステリアス」では済まされない、
現実的に深刻な事実があると思って、
今日は話題に取り上げます。

さて、話を元に戻しますと、
トップヲタだった彼が言うには、彼が、
「トップヲタとして認められたこと」に、
喜びを感じてたってのがほんとのことで、
それを、彼女に対する「ガチ恋」だって、
錯覚してた ・ ・ ・ みたいなんですね。

つまり、彼は、ヲタク仲間にですね、
「すごいな」って認められることが、
実は、嬉しかったんだという真実に、
「気付いた」ってことみたいですね。

ああ、そうなのか ・ ・ ・ って、
私は思うところがありまして、たとえば、
昔の(今は消滅した)遊郭で、
男が大金を使ったというのも、
そういう心理だったのかなあって、
江戸時代などの風俗で、疑問点を考える、
一助となったことでしたが、今日は、
アイドルを「愛してる」と、
自分では確信してたのに、実は実は、
「そうじゃなかった」と気付いた事例で、
私はですね、親とか祖父母がですね、
「孫がかわいいくて愛してる」って、
本人はそう思っていてもですね、でも、
実際は子どもや孫を「虐待してる」、
あの、それ、ほんとのことでして、
現実にそういうことが起きてることを、
やっぱり、問題にしたいと思いまして、
次回も、その話題にしたいです。

あの、このブログは、
「良い人間関係」を話題にしますが、
世の中には、相手を虐待しながら、
「良い人間関係」だと錯覚してる人、
いますからね、私としては、
書かないではいられません、
悲惨な話題なんですけどね。

それで、次回、話題にしたいのは、
「溺愛してる」ように世間から見られ、
自分でも、子どもを「愛してる」と、
「信じてる」親とか祖父母がですね、
実は実は、子どもを虐待してるという、
 ・ ・ ・ いやあ、
恐ろしい話になってしまいましたけど。

で、この続き、次回に書けるかどうか、
今の段階では、わかりません。
あるいは ・ ・ ・ 書けないかも?
話題が陰惨すぎまして。