人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

奴隷を求める魔的快感

人を好きになれること、また、
人を愛することができることって、
それはもう、ほんとに幸せの源だって、
つくづく、私は感じることです。

なぜなら、人を好きになれないとか、
愛することができないっていう人間が、
現実に、世の中にいるからでして、
そういう人の不幸って、日常的に、
目にすることがあったりするからです。

さて、テレビドラマの一場面ですけど、
記憶にあいまいなところもありまして、
でも、女王とか、女王じゃなくても、
とにかく、権力者を持つ女性に対して、
臣下が貢物を贈るシーンなんです。

一人の男が、女王専用の奴隷として、
貢物にされます。
贈った人物は、女王が彼に対して、
どんなことをしても自由だと言います。
まあ、女王は、その奴隷に対して、
生殺与奪の権を持つというわけですね。
ドラマの筋書きでは、女王が、
その貢物を受け取らなかったように、
記憶してるんですけどね。

それで、「奴隷の貢物」をする理由は、
贈り主にすれば、その貢物がものすごく、
女王に喜ばれるだろうという目論見で、
それは、つまり、人間というものは、
「自分専用の奴隷」がいたらうれしいと、
人の気持ちを確信しているからであると、
私は思いました。

あの、それって。
「人の本心」かもしれないですけどね、
でも、現実問題として、人間を、
「自分専用の奴隷にする」なんてことは、
社会通念上、許されないことなので、
そういう欲望は、意識に上る前に、
自主規制しちゃうってことなのかなあ?

まあ、とにかく、誰か一人の人間が、
「自分の思いどおりに動く」ならば、
すごい喜びかも知れませんけど、でも、
そういう気持ちって反社会的なので、
「自分専用の奴隷がいたらうれしい」
 ・ ・ ・ なんて、たとえ本心でも、
「言えない」ですよね、社会的に。

でも、でも、考えてみて下さい、
相手が乳幼児とか子どもだったら、
「自分専用の奴隷」に仕立て上げること、
可能じゃないですか?

あの、源氏物語の紫の上のことですけど、
光源氏は、幼かった頃の彼女を拉致して、
いわば、自分専用の女性に仕立てようと、
もくろんでいたと思うんですが、それは、
私が源氏物語を見ての感想で、
「奴隷」と表現するのはキツイですけど、
光源氏の気持ちの上では、紫の上を、
「自分専用の奴隷」にしたかったのだと、
ああ、こんなことを書きましたら、
すごいお叱りを受けるかも知れませんが、
「妻」という立場にあった紫の上なので、
奴隷という感覚など無かったでしょうし、
二人の愛の物語みたいに見えますけどね、
でも、彼女のことを、光源氏は、
「思いどおりの女性」に仕立てたかった、
そのことは事実ですから、私としては、
二人の関係を喜べないものがありますね。
「結果」としては良かったとしても、
光源氏の「動機」は、賛成できません。

同じことですけど、親がですね、
子どもの学歴などのために努力しても、
それが「親自身の欲望」のためであって、
子どもに無理を要求してるんでしたら、
たとえ結果が良かったとしてもですね、
親の動機として、賛成できないどころか、
そういう親はダメであると、
ハッキリ言いたいし、そういうことでは、
親子とも、幸福ではないんですよね。

まあ、子どもが親の願いどおりに、
うまくいった例はあるんですけどね、
その反対に、子どもが、
親の思いどおりにならなかった上に、
自分の人生をダメにしてしまった例を、
私は、何人も見てますし、また、
そういう話をよく聞くことです。