人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

惨い境遇を生きのびた人

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昨日のブログに、
「客観的に見て『客』なのに、
 初子自身が、
 『自分は客である』という立場を、
 自分自身に許してないんですよね」
と書きました。

さて、ある人の実話ですけど、
その人は、「たとえ、
万人に与えられるものであっても、
自分一人には与えられない」って、
固く確信して生きてきたそうです。

なぜなら、
「誰にでも与えられる」ものならば、
「自分にも与えられて当然」だって、
あたりまえのことを考えたとしたら、
その人の苦痛が、
さらに激増することになるどころか、
耐え難くて生きられなくなるんだと、
驚くべきことを言うんです。

それだけ聞けば ? ? ? なんですが、
よくよく理由を聞いて考えましたら、
一応、次のように理解できました。

その人にとっては、
自分の思いを持つこととか、
自分の考えを持つこと、
こうしたいとか、ああしたいと思うこと、
これが欲しい、あれが欲しいと願うこと、
誰かにお願いごとをするなんてことは、
厳禁も厳禁、絶対にしていけないことで、
もし、親などに対して、家の中で、
そういう態度を見せたら、それは、
親などに対する「反逆」だとされるので、
ただひたすら、自分の気持ちを殺し、
感情を殺し、ですからもちろん、
ああして欲しい、こうして欲しいなどの、
切望のような願望も、心の中で押し殺し、
決して表情にも、態度にも出すことなく、
親たちの「言うがまま」に生きるしか、
生きる道を許されなかったんだそうです。

そして、おやつなど食べたことがないし、
小遣いなど、もらったこと無いというか、
小遣いとしての金銭を与えられること、
菓子やオモチャの買い物をすることも、
商店や祭りの露店を見ることも厳禁され、
ですから、家族が旅行から帰ってきても、
「おみやげ」なんていうものは、
「一度ももらったことがない」そうで、
高校を卒業するまで、飲食店などには、
一度も入ったことがないというんですが、
中学以降、たとえ小遣いがあったにせよ、
店に入って食べるなんて、もうとても、
できなかったそうでして、中学生の時、
駅の売店で牛乳の小パックを飲んだら、
店員が顔見知りの人で、その店員が、
「牛乳を買った」ことを家族に言ったら、
どんなにひどいめにあわされるかと、
何か月もビクビクして過ごしたそうで、
祭りの日に親の目を盗んで小銭を盗み、
露店でおもちゃ買った時があったそうで、
家に持ち帰ってバレるのが恐ろしくて、
家には持ち帰られなかったとか、まあ、
想像できない生活をしていた人がいて、
その人、物も小遣いももらえませんで、
病気をした時も親たちは医療費を惜しみ、
世話もしてもらえなかったようでして、
だから、自分は「必要な物」はもちろん、
困った時も助けてもらえることがなくて、
それで、「自分だけ」は、他人と違って、
「何も与えられない人間」であると、
「自分のことを決め付ける」ことにより、
「あきらめ」の気持ちを持つことでしか、
苦しい現状を「耐え切れなかった」と、
その人のことを理解したんですけどね。

まあ、人間の適応力って、すごいなあと、
ほんとに私は驚きますけど、
そういう心境にならなければ、
過酷な人生を耐えて生きるなんて、
もう、とっても、できないことでしょうね。

今日、そういうことを書きましたのは、
おしん」に登場する初子の態度や行動を、
少しでも理解するためには、
上記のようなことを知っておかなければと、
思ったからなんです。