人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

好意を受け取れる幸福

f:id:jky:20191201072842j:plain

他の人の喜びのために、
自分が何かするってことは、
ほんとに喜びなんですけどね、でも、
でも ・ ・ ・ です、
昨日の続きを書きますが、初子が、
(1)茶を淹れ、
(2)飯を炊き、
(3)菜を洗った行為は、
他の人が喜ぶ行為を行うことによって、
「自分も楽しむ」ということとは、
「まるで違う」んだということを、
強調しておきたいです。

あの、「他の人の喜びのために」、
自分が行為する理由というのは、
他の人に喜んでもらえることが、
「自分の喜び」にもなるからなんですね。

つまり、それって、
相手の人のことが大好きだったり、
その人を慕っていたり、恋してるとか、
その人の存在そのものが、
「自分の喜び」という心理状態ですね。

だから、大好きな人が喜んでくれたら、
「私自身」がうれしく、幸福なんですね。
それで、恋人や慕わしい人のためには、
相手が喜ぶようなことをするんですよね。

でも、初子の行動は、
田倉家の人が喜ぶことは間違いなですけど、
それは、「初子自身の喜び」のためでなく、
初子が「必要とされる」人間であり、
「役に立つ」子だということが認められ、
「気に入られる」ことを目指していると、
私には思われます。

そして、ですね、決定的に重要なこと、
それは、初子が、
「客の立場」だっていうことでして、
でも、初子は、
「田倉家の使用人」としての行動を、
自ら行ってるわけでして、そこに、
初子の「根本的に重大な心理的問題」が、
示されていると思います。

つまり、初子は、
客観的に見て「客」なのに、初子自身が、
「自分は客である」という立場を、
自分自身に許してないんですよね。

そして、「客の立場」でありながら、
初めて訪れた家で、
その家の召使、あるいは使用人の立場を、
「自ら」演出しているというか、
初子自身、田倉家の「使用人」の役割を、
積極的に行っているわけで、
この話、心理的にものすごく深いので、
続きは明日にしたいと思います。

あの、「客として」よそに行ったら、
客としてもてなしを受けて楽しめるの、
そんなこと、普通のことですけど、
その「普通のこと」が、実は、
とっても幸福なことなんだと、
改めて感じられた私です。

・ ・ ・ 世の中には、
好意を示されても、相手の好意を、
「すなおに受け取れない」人とか、
恋人関係になる以前に、
相手から好きな気持ちを示されても、
かえって「引いてしまう」ような人って、
いるみたいですけど、
おしん」に登場する初子も、
「客として扱われる立場」なのに、
客としては行動できず、
自ら「奴隷的態度」に出るんですよね。

今日の標題を、
「好意を受け取れる幸福」としましたが、
相手が自分に好意を示してくれた時、
その相手の気持ちを、そのまま受け取り、
自分の喜びとすることができるって、
ほんとに幸せなことなんだと思いました。

なぜなら、他人が好意を示してくれても、
「受け取れない」人が、
世の中には、いるんだってことが、
わかってきたからです。