「自分を生きられない」不幸
昨日の続きですけど、酒田の米問屋、
加賀屋では、娘のお加世が跡継ぎとなり、
家業を守ってもらうことが、
親とか祖母の願いなんですね。
でも、お加世は女ですから、
お加世の夫に加賀屋が託されるわけで、
彼には、加賀屋を存続させ、さらに、
隆盛に導くことが求められました。
おしんが佐賀にある夫の実家に行きますと、
三男である息子の嫁として、姑に仕え、
重労働に服すことが求められます。
高倉浩太は、貴族院議員で大地主の、
親の家を守り継ぐ役目を期待されています。
おしんの長男、雄は、中学の入試に合格し、
旧制中学に入ることが、おしんの願いです。
・ ・ ・ というふうにですね、
親も含めて、誰か「他人のため」に、
自分が生きなければならないという図式が、
そこに見られるわけです。
そして、まさにそのことが、
個人を苦悩に導くことになるわけでして、
つまり、「他人のために」生きることが、
「自分の使命」になってますから、結局、
そこでは、「自分自身を生きる」って道が、
許されないんですよね。
もっと強い表現で、ひどい言葉を使えば、
「自分が」、誰か「他人によって」、
「支配され、操縦される奴隷になってる」
・ ・ ・ ってことなんですよね。
そして、「相手の支配に服さなければ」、
生きる道が無い情況に追い込まれた場合、
人は、その環境下で生き延びるために、
「奴隷になる」道を選ばざるを得ないと、
私は思います。
あの、今日はこれまでにしまして、
明朝から家を離れて出かけてきますので、
次回を書くのは、数日後になるかも・・・