人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

不能な理想に固執しない

結婚できないはずの大司教が、
愛人と子供たちのために、
豪華で贅沢な宮殿を作った話、
昨日書きましたけど、
それより百年ほど前のスペインに、
シスネロスという、
偉大な聖職者がいました。

その彼が、スペインのテレビドラマ、
「イザベル」に登場するんですけど、
テレビドラマの中で、彼が、
修道院を抜き打ち視察する場面が、
興味深かったです。

修道院には、修道士に給仕したり、
調理したり、洗濯するなどの女性が、
たくさんいたんですけど、
それが見つかってしまいまして、
まあ、料理や洗濯のためと言うのは、
苦し紛れの理由付けなんですけどね、
それでシスネロスは、その実態を、
イザベル女王に報告したみたいです。

あの、修道院は「女性厳禁」ですが、
実際はそうじゃなかったってことで、
その実態がドラマで再現されていて、
おもしろかったです。

でも、私が言いたいことは、
どんなに「理想だから」と言っても、
人の気持ちが向かうところを禁じる
 ・ ・ ・ という手法は、
破綻するってことなんでして、
ドラマの話は、単に、その一例です。

シスネロス自身は修道士出身で、
生涯独身を通し、清貧を貫きまして、
そういう点でも超人的だったようです。

しかし、市井一般の「普通人」は、
なかなか「立派な生活態度」とか、
「高い精神レベル」は維持できません。

さて、「理想の人格陶冶」みたいなこと、
私には、うさん臭く思われるんですね。
同じく、「高潔な人間」なんていうのも、
そんな看板、掲げなくていいと思います。

私の考えでは、「理想の人格」って、
空想であり、さらに言えば、虚妄ですね。
「高潔」って言うのも「意味不明」だし、
それでも高唱するなら、妄言と思います。

そんなことを考えたり、言うことよりも、
現実生活において、他の人を大切に思い、
心優しく、温かく接し、この人生を、
共に楽しみ、喜べるように行動すること、
それを実行していくのが、実現可能な、
幸福への道ではないかと思います。

そして、他の人を大切にすることは、
つまり、自分を大切にすることですから、
自分も他人も大切にする生活態度で、
良い人間関係を維持して生きるってこと、
そこに幸せが見いだされるんだと、
私は思うことです。