人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

裁判の被告にされた体験

私は、裁判の被告にされたことがあります。
あの、私は、自分でもそう思いますけど、
心優しく、おだやかなタイプなんですよね。

それで、私には、全く、全然、金輪際、
「自分には非が無い」ことで、
裁判の被告された経験があるんです。

さて、私を訴訟にかけた相手というのは、
心優しい私の性質を利用というか、
悪用したことに間違いなく、その相手が、
私に対してもっているイメージは、
私って、どんな理不尽ををされたとしても、
「私のほうが折れる」という人間だと信じ、
私は「強い者の言いなりになる人間だ」と、
相手が確信していたからこそ、
最初にドカンと、強力に私を攻撃し、
一撃で私をつぶしてしまえば、
私は恐怖に陥って、反発できるはずないと、
相手とすれば、そういう予測のもとに、
強行して裁判に打って出たわけでして、
これは、裁判開始後にわかったんですけど、
裁判を起こされた当初は、私は夢中で、
そこまではわかりませんでしたが、
相手には手腕のある弁護士がついてました。

それで、裁判というものは、
訴訟を起こした本人がウソを言っても、
どんなに理不尽に裁判を進めたとしても、
訴えられた人が「反論しなければ」、
訴えた人の言葉が「真実」とみなされて、
訴えた人の勝ちになってしまうってこと、
私は、その裁判を通じて、
初めてわかりましたけど、いやあほんと、
危うかったですねえ、その時は。

・ ・ ・ 訴状に書いてある大ウソに、
私が一々、「それは事実ではない」こと、
つまり、相手が捏造した虚言について、
私が指摘した為、裁判が始まりました。

その裁判と言いますのは、本来、
原告が訴訟を起こすこと自体、誤りで、
話を捏造して私を悪者にしていますから、
訴訟は高等裁判所まで行ったんですけど、
事実無根の、捏造した話を、
相手側は言ってたわけなので、結局、
相手の訴えが認められるはずもなく、
高裁の要請は、私が金銭を受け取ることで、
判決を出さずに裁判を終わらせて欲しいと、
まあ、そんなことでしたから、
相手のウソを判決で暴くには至りませんで、
結局、高等高等裁判所は、
「判決を出す」ことを忌避したかったと、
私は思うんですけどね、とにかく相手に、
「非がある」ということになりますと、
相手側の弁護士は面目丸つぶれと言うか、
私に対してその弁護士から、
高額な和解金を提示されましたから、
「相手のほうが全面的に悪い」わけなので、
「和解」という言葉は意に反しますけど、
まあ、しかたなく、裁判を終わらせました。

まあ、高裁の判事としてもですね、
司法というか、裁判所側の、
それまでの不手際や責任を、
自ら認めざるを得ないような判決は、
「出したくなかったんだ」と、
私は思っています。

結局、裁判所や司法っていうものも、
難事を避けて「無難に済ます」ってこと、
判事も人間ですからね、
まあ、そういう気分になるんでしょうが、
事実を積み上げ、厳密に論理展開すれば、
私を訴訟に持ち込んだ相手側の非法とか、
裁判経過での裁判所自体の不手際が、
「明確になる」ことを避けたんでしょう。

さて、私が裁判攻撃を受けたことを、
今日書きましたのは、
裁判では肉体的な痛めつけを受けませんが、
肉体的に痛めつけられることと同等、
そして、精神的には、それ以上の痛み、
そして苦しみを受けるんだという事実を、
身をもって体験できましたので、
このブログでは、相手を精神的に攻撃し、
痛めつけることの不幸についても、
これから書いていきたいと思います。

そして、人間関係の喜びというものは、
相手と対立したり、争ったり、攻撃したり、
言いなりになって隷属するなんてことでは、
決して得られないんだということ、それを、
繰り返し、声を大にして言いたい私です。