人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

値引き品が買えない人(1)

「恥ずかしくないの?」
値引きシール商品購入を諌められた人たち
・・・という題の記事を見つけました。

引用して紹介します。
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人材派遣会社で働く20代の女性会社員Bさんも、
値引き品の購入をめぐって、
最近交際を始めたばかりの30代男性と
険悪な雰囲気になったと明かす。
20時すぎにスーパーに2人で訪れた時のことだ。
「半額」の値引きシールが付いた惣菜を見つけ、
Bさんが迷わずカゴに複数の商品を入れながら、
「お寿司が半額なんて最高だよね」と彼に言うと、
思わぬ言葉が返ってきた。
『何品もかごに入れて恥ずかしい。
一緒にいる俺の身にもなってくれよ』と言われました。
一瞬何を言われているのかわからず、
キョトンとしてしまいました」(Bさん)
Bさんは、普段から惣菜だけでなく、肉や魚、
野菜などといった食材の見切り品は多めに購入し、
冷凍するなど倹約に努めていた。それだけに、
彼の言葉に多少の違和感を抱きながらも家路についたが、
家で購入したお寿司を食べ終わると、
“事件”は起こった。

彼が、容器の値引きシールをわざわざはがして、
『もし、値引きだらけの商品を買っていると知られたら、
恥ずかしいだろ』と言うんです。
そんなに値引き商品って恥ずかしいことなんでしょうか。
金銭感覚の違いなので、
今後の交際にも影響しそうです……(Bさん)

大手商社に勤務する40代の男性会社員Cさんも、
セール品や値引き品を好んで買うタイプ。
だが、そんなCさんの姿勢に、
「稼いでいるクセに……」と嫌味を言う人もいると明かす。
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その記事を読んだ私の感想ですが、
私は値引き品を買うことが恥ずかしいと思いませんし、
逆に、「恥ずかしい」と思う人の気持ちが、
理解できませんでした。

そこで、どうしてそんな気持ちになるのか、
インターネットで調べてみましたが、
結局、わかりませんでした。

でも、ヒントになりそうな記事を見つけましたので、
引用して紹介します。
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おつとめ品を買うときに恥ずかしいと感じることは
次のどちらに当てはまりますか?
●お会計
●店員の視線
●知り合いに見られたとき

おつとめ品の恥ずかしい理由はいくつかありますが、
どの理由で恥ずかしいと思うかは人それぞれです。
お会計の際、レジ待ち客の視線や
店員の商品割引きを読む声が
恥ずかしいという意見もあります。

店員の視線については、「見られると買いづらい」
「値引きばかり買っていると思われる」など。

そして、おつとめ品の恥ずかしいで一番多いのは
知り合いに見られたときです。

おつとめ品を買うときに
「会社の同僚、近所の人に見られて恥ずかしかった……」
という声もあります。

スーパーでおつとめ品を買うとき、
意外にも誰も他人の買い物を見ていないです。

おつとめ品を買ってくれる客は
スーパー側にとって有り難い存在で
食品ロスにも貢献しています。

しかし、おつとめ品を買うときに
知り合いに見られて恥ずかしかった
という声があるのも事実です。
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その記事を読んで思いましたが、
私は、自分の買い物を、
店員やレジ待ちの客、また、
知り合いに見られたとしても、
別に「何とも思わない」ですから、
「気にする」人の気持ちが不思議です。

でも、よくよく考えてみますと、
そういう人は
「人間関係を喜べない」んじゃないかと
想像したことでした。

それで、この続きは次回にします。

仲良くできる幸せ

テレビ番組で、
「ベイビーたちが地球を救うSP
 可愛いの大渋滞!
 世界のベイビー大集合
 生まれる前の記憶を話す少女
 驚愕!次々と一致する現実」
・・・というのを見ました。

中でも、
「生まれる前の記憶を話す少女」を見て、
私の感想ですが、
(1)生まれる前に「空」にいる赤ちゃんたちって、
 「対立抗争」なんかしてないと思いました。
(2)生まれてきた姉妹のひいちゃんとふうちゃんは、
 とっても仲良しみたいですね。
 もちろん、姉妹のママもパパも、
 一家みんな「仲良し」ですよね。

それで、人がみんな仲良くできるって、
それは一番幸せなことなんだと思いました。

規則づくめだから楽しい

夏目漱石の小説「草枕」から、
一部を抜粋します。

「茶と聞いて少し辟易した。
 世間の茶人程勿体振った風流人はない。
 広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、
 極めて自尊的に、極めてことさらに、
 極めてせせこましく、
 必要もないのに鞠躬如として、
 あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である。
 あんな煩瑣な規則のうちに雅味があるなら、
 麻布の連隊の中は雅味で鼻がつかえるだろう。
 回れ右、前への連中は、
 ことごとく大茶人でなくてはならぬ。
 あれは商人とか町人とか、
 まるで趣味のない連中が、
 どうするのが風流か見当が付かぬ所から、
 器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして、
 これで大方風流なんだろう、
 と却って真の風流人を馬鹿にする為めの芸である。」


さて、夏目漱石は小説でそう書いてますけど、
実は実は、茶の席では、
「無言で居る」ことも楽しいのであって、
「黙っているから」人との交流が無く、
孤独を感じる心境なのかと言ったら、
全くその反対で、ものすごく強く、
「いっしょにいる人々との深いつながり」を、
感じるんですね、私なんかは・・・

あの、茶会では、全員、「動作」というか、
「すること」が決まっていて、
さらに、会話についても、
どういう内容の会話をするかということまで、
半ば「決まっている」ようなものですよね。

だからこそ、人との会話が途切れて、
「行き詰ったような心境」になるなんてことは、
茶会では、ありえないと思います。

なぜなら、茶会では「黙っていてもいい」んだし、
会話の中身も決まっているようなものですから、
「何を話したらいいか?」なんてことで気を使い、
ストレスを感じる必要がないからなんです。

それで、心は「自由そのもの」で、
何の規制も受けずに、
「のびのびとした心境」でいられるんですね。
アノ、規制を受けるのは、
お茶の「作法」の面でして、
作法さえ決められたように行っていればよくて、
「気持ち」の面では、
ただただ、茶会を「楽しめばいい」んですね。
そのことって、
「各自の動きがキッチリ決められているダンス」
を踊る場合と同じだと感じる私です。

結論は、ある面では「規制されている」のに、
だからこそかえって「自由でおもしろい」世界
があるんだということです。

そうですねえ、「定型詩」の世界も、
同じではないかと思うんですけど。

心が自由である幸せ

人との関係において、
何かに「とらわれる」ようなことがなく、
自由で率直な心のままで、
人と接し、交流できるってことは、
すごく幸せなことだと思います。

さて、人と話していて「会話が途切れる」、
その「途切れる」ってことが、
心理的な負担になったような体験って、
あります?

そういう場面では、
「どうしたらいいか?」みたいなことが気になって、
自由で率直な心が失われていると思います。

さて、前回の続きですが、
各自が「決められた動き」をしなければ、
成り立たない踊りっていうのがあります。

その場合、「自分の動き」を、
自分勝手にはできないんですけど、
だからこそ、
「決められた動き」をすればいいんであって、
「会話が途切れた」時に「どうしよう」みたいな、
気を使う必要が無いんですね。

そして、心は、全く自由に、何にもこだわらず、
何の心配もなく、
ただただ「いっしょに踊れる幸せ」を、
十分に感じるだけでいいんです。
そして、そういう状況っていうのは、
すごく幸せだと思います。

次回はまた、関連したことを書きたいです。

自分が規制されても楽しい話

前回に続いて、ダンスの話、続けます。
番組では、そのダンス集団を主催する
アオキ裕キさんという方のお話が放送されました。

「集団で踊る」踊りって、
「そろえる動き」ということが大切なんですけど、
そのことに関して、ちょっと触れられていました。

さて、次は、私の個人的感想ですけど、踊りには、
「他の人とキッチリ合わせなければならない」踊り
・・・ってのがありまして、そことについてです。

一応、そういう踊りの動画を一つ、紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=E5gydg84I4E

上記アドレスの踊りって、
各自が「決められた動き」をしなければ、
成り立たない踊りの一つなんですね。
つまり、「自分勝手な動き」・・・をしたら、
踊りが成立しないわけです。

そういう踊りって、「自分勝手を完全否定」して、
完璧に「他の人と合わせる」ことが
最重要なんですけど、だったら、
「つまらない」じゃないかと思われるかもしれませんが、
実際はそうではないんですよね。

いいえ、それどころか、
とっても楽しいタイプの踊りなんです。
それで、そういうことについては、
次回に書きたいと思います。

「自分でいられる」幸せ

前回の続きですが、
「昔は縛られていた。
 自分の意志が無かった。」
・・・という男性、
私が思いますに、その人は、
「意志が無かった」のではなく、
「自分の意思を表明」すると、
不利益な情況に陥るので、
しかたなく「ガマンして」、
自分を抑えていたのではないかと想像しました。

そして、だからこそ彼は、
「縛られていた」と言ったのかなあ・・・って。

そうですねえ、たとえば会社勤めとかで、
社命や上司の指図に従うことを求められたら、
退職覚悟でなきゃ、
「自分の思いに従って」、
言いつけに逆らうなんてこと、
できないかもね?

ああ、でも、もっと悲惨なのは子どもで、
親が「絶対者」として君臨するような家庭では、
「自分を殺して親に従う」しかできませんよね、
子どもとしては。
だって、大人の労働者だったら、
退職覚悟で自分を貫くこともできますけど、
親が暴君だった場合、子どもは、
「虐待死」させられるのを覚悟するくらいでなくちゃあ、
「イヤだ!」なんて、言えませんものね。

ですから、「イヤなことはイヤ」って、
「自分が主張できる」環境に居られるってことは、
ものすごく幸せなことだと思いました。