人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

規則づくめだから楽しい

夏目漱石の小説「草枕」から、
一部を抜粋します。

「茶と聞いて少し辟易した。
 世間の茶人程勿体振った風流人はない。
 広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、
 極めて自尊的に、極めてことさらに、
 極めてせせこましく、
 必要もないのに鞠躬如として、
 あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である。
 あんな煩瑣な規則のうちに雅味があるなら、
 麻布の連隊の中は雅味で鼻がつかえるだろう。
 回れ右、前への連中は、
 ことごとく大茶人でなくてはならぬ。
 あれは商人とか町人とか、
 まるで趣味のない連中が、
 どうするのが風流か見当が付かぬ所から、
 器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして、
 これで大方風流なんだろう、
 と却って真の風流人を馬鹿にする為めの芸である。」


さて、夏目漱石は小説でそう書いてますけど、
実は実は、茶の席では、
「無言で居る」ことも楽しいのであって、
「黙っているから」人との交流が無く、
孤独を感じる心境なのかと言ったら、
全くその反対で、ものすごく強く、
「いっしょにいる人々との深いつながり」を、
感じるんですね、私なんかは・・・

あの、茶会では、全員、「動作」というか、
「すること」が決まっていて、
さらに、会話についても、
どういう内容の会話をするかということまで、
半ば「決まっている」ようなものですよね。

だからこそ、人との会話が途切れて、
「行き詰ったような心境」になるなんてことは、
茶会では、ありえないと思います。

なぜなら、茶会では「黙っていてもいい」んだし、
会話の中身も決まっているようなものですから、
「何を話したらいいか?」なんてことで気を使い、
ストレスを感じる必要がないからなんです。

それで、心は「自由そのもの」で、
何の規制も受けずに、
「のびのびとした心境」でいられるんですね。
アノ、規制を受けるのは、
お茶の「作法」の面でして、
作法さえ決められたように行っていればよくて、
「気持ち」の面では、
ただただ、茶会を「楽しめばいい」んですね。
そのことって、
「各自の動きがキッチリ決められているダンス」
を踊る場合と同じだと感じる私です。

結論は、ある面では「規制されている」のに、
だからこそかえって「自由でおもしろい」世界
があるんだということです。

そうですねえ、「定型詩」の世界も、
同じではないかと思うんですけど。