人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

幸福な「努力」

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前回書いたことに関して、
じゃあ、「私はどうするか」ってこと、
それが大切だと思いました。
 
それで、まず考えたことは、自分には、
「相手の人に対する感謝や思いやり」が
必要だってことで、
それを実践するのがいいんですよね。
 
そして、その実践は、
楽しくて幸福でなければならないと思いました。
 
そのことに関してですが、「楽しくて幸福な努力」
っていうことが重要であって、
その反対にですね、本心では嫌なのに、
「自分の心に反して無理に行う」ってことになりますと、
弊害のほうが大きくなりますから、
社会的には「良いこと」とされることでも、
自分の気持ちに合わないことは
「するべきではない」というのが私の考えです。
 
それで、自分が「喜ばしい日々」を送るためには、
「楽しく」実践できることをするってことが、
一番幸せだと思いまして、
そんなわけですから、
「喜んでできること」を
努力目標にするのが一番だと思っています。

思いやりの必要性

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関わっているいろんな活動や行事が中止、中止で、
私は精神的に新型コロナウイルス疲れとなり、
数日間、ブログの更新ができませんでした。
 
いろんな損害、損失も発生してますけど、
でも、そうしたことなどは無視され、
ないがしろにされてるってことは、
まあ、しかたないことなんですけど、でも、
心の面では「おもしろくない」んですね、やはり。
 
それで、人にとって、
相手に対するいたわりとか、思いやりって、
ほんとに必要な気持ちだと思いました。
 
あの、損害や損失について
怒ってるわけではないんです。
そうではなく、
誰かが損害や損失を被っても、
「そんなの、オラ、知らね」みたいな、
無関係、無関心な態度で他人を見る人間って、
いますけどね、まあ、
相手を害するような凶悪な人間じゃないとしても、
そういう人間って、やはり、
「付き合いたくない」人間のタイプですね。

善意の無視は不幸な社会

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新型コロナウイルス感染拡大防止策に関して、
レジャー産業、観光産業などや催し物に対しては、
「自粛」要請があるようですけど、
「自粛」というところに問題があるかなあ?
 ・ ・ ・ と、私は思います。
 
あの「自粛」ですからね、
自粛によって経済的損失を出しても、それは、
「自粛した」側の責任であって、
「自粛を要請した側」は
責任を負わないってことなんですよね、
なにしろ、「自粛した」のは、
その「自粛した」人の判断だってことですから。
 
ですから、「自粛要請」した側は、
何の責任も負わないし、
自粛した人に損害が発生しても、
補償なんか、するはずもないですよね。
 
それで私は、
「ずるいやり方だなあ」と思いました。
 
私はかつて、
ある部署に人員不足が生じたので、
自分の部署の人を人員不足の部署に回し、
自分の部署も「痛みを分かちあいました」。

その後、人員不足は解消されたのですが、
かつて人員不足だった部署は、
私の部署から回してあげた人員を、
戻してくれません。

つまり、「既得権」として
「取ってしまった」のです。
 
まあ、そういうことがまかり通りますと、
「他の人々が困っている」場合でも、
助けてやったら「損害を被る」ことになり、
人の善意が報われなくなっちゃいますね。
 
そうしますと、
善意なんか持たないほうがいい社会になって、
世の中の幸福度が低下すると思います。
 
あの、ですから、
「要請」という形で、
「善意の人」に損害を押し付け、
「善意の人」の犠牲によって社会を成り立たせ、
でも、その犠牲に関しては、
「知らんぷり」で一顧だにしないという
「ずるい態度」だったら、
世の中は不幸になると思いました。
 
この3月、
私も関係してる行事が中止となり、
準備に使った出費その他、全部損害ですけど、
でも、こういう状況ですから、
全く文句なんか言いませんけどね、
ああ、そういう犠牲もあるからこそ、
世の中が無事に成り立ってるんだという認識、
そして、痛みを引き受けた人々に対して、
その心情を思いやる気持ちって、
必要ではないでしょうか。

優しかったり悪魔だったり

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新型コロナウイルスの感染が
毎日毎日拡大し続けてますけど、
北朝鮮で感染爆発が起こったら
おもしろいとか、
ブラックアフリカ
みんな死滅するほど感染しないかなあなんて、
言ってる人がいますけど、世の中には、
「俺はコロナだ!」と
人に迫ったっていうようなニュースも、
何件かありましたね。
 
それで、ウイルスとは関係ありませんが、
自分の家族を虐待する人だって、
世間には、たくさんいまして、
要するに、新型コロナウイルスみたいに、
「他人に害をなす人間」っていうのは、
広い世界にはいっぱいいるし、
被害者の立場から言えば、
目に見えないウイルスからはもちろん、
いっしょに生活する家族からでさえ
ひどいめにあわされてる人も多くて、
そうすると、現実には、
「地獄の状況にいる」人は数多くいて、
そのことを考えてみますと、
優しく、温かい心でいられるってことは、
なかなか難しいことだなあと思います。
 
仮に自分が新型コロナウイルスに感染したとか、
人間関係でひどいめにあわされているとすれば、
優しく、温かい心でなんか、
いられませんものね。
だから、優しく、温かい心でいられるって、
ものすごく恵まれてることなんだと思いました。
 
また、自分が「優しく、温かい心」とは正反対の、
鬼や悪魔の心境にいるとしても ・ ・ ・ ですね、
世の中には、
鬼や悪魔がいっぱいいることを考えれば、
「鬼や悪魔に等しい」自分の姿を、
自分で否定し、あるいは、自分を攻撃するのは、
妥当であろうか?
・ ・ ・ ってことですね。
 
人って、「優しく、温かい心」も持てるし、
また、
鬼や悪魔になることもある存在なんだなあって、
まあ、客観的に、そういう事実を思うだけです。

凶悪な人間の問題

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相手が「喜べるように」
「私が」行動するってことは、
すごく「相手のことを思う」ことであって、
自分が相手に無償奉仕することでもありますから、
そんなふうにできるためには、私が、
「相手を信頼できる」って気持がなければ、
できないと思うわけでして、ですから、
相手が私から「奪おう」とする人間だとか、
私を「攻撃する」ような凶悪な人物だったら、
相手に喜んでもらおうなんて気持ちには
なれませんよね、初めっから。
 
まあ、でも、例外もありまして、
私の体験ですけど、とっても大好きな人がいて、
私はその人のためなら、
いっしょうけんめい尽くそうと思ったことがあり、
たとえ、その人が私にひどいことをしようと、
そんなこととは全く無関係に、
「たとえ自分がひどくされても」
その人に至誠を尽くそうと思ったこと、
ありましたね。

・ ・ ・ あの、それ、すごく良い思い出だし、
そういう気持ちになれたの、今でも、
良かったなあと思っています。
 
ああ、でも、今日書きたいのは、
「ひどい相手」や「凶悪な相手」だったら、
その人といっしょに楽しく過ごそう
・ ・ ・ なんていう気持ちには、
なれませんよねっていうことなんです。
 
人は、他の人といっしょに
喜ばしく生きたいし、そのためには、
相手に対して「自分自身を開く」ってことが
必要だと思います。
 
そして、自分自身を他の人の前に開放し、
いっしょに楽しく過ごしましょうって、
そういう態度で自分自身を発揮するためには、
自分のそういう気持ちを
相手に「受け取って」もらえるし、
同調してもらえるってことが必要だと思います。
 
それで・・・ですね、心が優しく、
温かい心情の人っていうのは、
凶悪な人間にとっては
「攻撃しやすい人」であり、
その人から奪うことができる「カモ」というか、
おだやかな人は犠牲者になりやすいんですよね。
 
ですから、心優しく、温かく、
おだやかな人が、その人の本性を発揮し、
まさに、その人自身を発揮して生きるためには、
周囲の人が凶悪人間ではないという条件が
必須だと思う私です。

自分自身が発揮できる

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他の人が「喜べるように」
「自分が」行動できるってことは、
自分にとって幸福なことですし、
とても喜びなんですよね。
 
でも、それは、
「自分が恵まれた条件に居られる」からこそ、
初めて実現できることだと思う私でして、
じゃあ、その条件とは?
 
その条件は、
誰にも遠慮せずに「自分自身が発揮できる」
という環境に居られるってことなんですね。
 
あの、そのことについて、次回に説明します。

与えることができる幸福

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おっぱいも抱っこも愛情も、
その他、何であれ、
赤ちゃんが必要なものはみんなあげて、
でも、それが嬉しくて、幸福で、
だから、お母さんにこそ喜びがあって、
もちろん、赤ちゃんは「満たされて」、
あの、それ、
単に一つの例をあげただけでして、
要するに、言いたかったことは、
他の人の喜びのために「自分ができること」、
その、自分ができることをするってことが、
それは、
「他の人のために」してるんですけどね、
でもそれが、結局は、
自分の喜びであるっていうの、
そういう状況が一番幸福なんだって、
私は思います。
 
それで、最初は誰でも赤ちゃんで、
赤ちゃんの時は自分が必要なことを、
何から何まで全部、
他の人に「してもらって」、
でも、自分が成長して
自分でいろいろできにようになったら、
今度は「他の人の喜びのために」
自分が行動できるっていうのが、
私は、すごく人生の喜びだと思います。