人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

相手の気持ちを汲む

再放送ドラマ「おしん」の175回で、
満州に行くつもりの竜三でしたけど、
おしんの行商姿を見て言うのです。
「魚の行商というのは、
 たいへんなんだな」って ・ ・ ・

おしん : 「アンタ、こんなとこで?」
竜三 : 「どんな商売をしているのか
 見ていたが、とうとうここまで
 ついてきてしまった。
 途中、何度
 引き返そうかと思ったか知れないが、
 引き返せなかった。しかし、
 こんなキツイ仕事だとは思わなかった」
おしん : 「これやらないと、
 食べられないと思ったら誰だって、
 みんなやっていることだから。
 でも、うれしい。
 私、これでまた働ける。
 あんたが迎えに来るまで、
 働く勇気でた!
 あんた、安心して。
 満州に行ってください。
 私は本当に大丈夫だから」
竜三 : 「やめたよ。
 満州には行かない!
 おしん、一人に苦労はさせられない。
 手伝うよ。俺も、魚屋やるよ!」

おしんは、自分の耳を疑った。
 竜三が満州行きをやめて、
 魚屋をやる気になったのだ。 
 おしんには、とても
 信じられなかったのである」って、
ナレーションが言うんです。

おしん」のドラマも、
伊勢編に入ってからは、
おしんがもう、いじめられないので、
安心して見ていられる私ですけど、
175回では、夫の竜三が、
おしんのことを思う気持ちになれて、
すごく良かったです。

あの、相手の人の痛みや苦しみ、
困難な情況なんかを汲み取る気持ち、
それは、ほんとに尊い気持ちですね。

今日は、そういうことが書けて、
うれしかったですが、この続きは、
また次回にしたいと思います。

幸福は良い人間関係から

人は誰もが、
この世界の「どこか」に生まれるわけで、
どういう境遇に生まれたかってことは、
その人の人生に、
大影響を与えると思うんですけど、
私は日本に生まれ、今日は、
陛下の「即位礼正殿の儀」だそうで、
そういう社会と時代に生きることが、
私の運命だったわけで、でも、
どういうのが人の幸せかってことでは、
人が生きている地域とか時代と関係なく、
普遍的なものがあるだろうというのが、
私の考えです。

そうですねえ、
「人と人との良い関係」っていうことが、
世界のどの場所にいようとも、
歴史のどの時代に生きていても、
幸せの条件として、
不変の重要事項だと思う私です。

くつろげる人間関係の幸福

前回のブログでは、
「くつろげる」ってことを書きましたけど、
それって、相手といっしょにいる時に、
「自分自身を出して」居られることかな?
・・・って思いました。

そうですねえ、「自分としての生き方」って
そんなこと、「みんな、してるじゃない?
 ・ ・ ・ って思われる面もありますけど、
でも、私が、現実の世相を見ますとですね、
「違うんじゃない?」って思いが強いです。

多くの人は、自分の思いとは違う生き方を、
「やむをえず」してる例が多いってことが、
現代でも、普通だというのが私の感想です。

そして、自分らしい生き方ができるのなら、
それで初めて、幸福への第一歩が踏み出せる
 ・ ・ ・ んですけど、でも、でも、だけど、
「自分らしい生き方」なんて、
できるはずが無いっていう境遇の人だって、
多いと思いまして、あの、私、
こんなことを書くつもりではなかったのに、
なりゆきにより、「自分らしい生き方」が、
「できない」って人もいる現実を考えると、
そういうことも考えてみなくちゃって、
でも、そうしますと、このブログから、
逸脱するテーマを書く必要もあるので、
つまり、「人間関係の苦しみ」のこと、
書くってことで、でも、このブログでは、
今まででも、人間関係の苦しみについて、
いっぱい書いてきましたからね、まあ、
いやな話題を書くのもしかたないかなあ
 ・ ・ ・ という思いでして、
このブログを始めたきっかけは、
人間関係の喜びを書きたいってことで、
でも、現実を見ますと、
そうじゃないことが多くって、でもでも、
人間関係の「苦しみ」の原因を考えて、
その苦しみを離れることを考えることも、
大切かなあと思いましたので、
まあ、そんなことで、暗い話題もです。

 

おもてなしの真髄

テレビ番組
「大使夫人のおもてなし」の
イタリア編ですけど、
大使夫人が次のように言ってました。
「お客様が
 くつろいだ気分になることが、
 私のおもてなしです。」

ああ、そうなんだ
 ・ ・ ・ って、私は思いました。

それで、「くつろげる」ってことは、
緊張感が必要無いってことで、つまり、
相手からの攻撃とか、
何か、意地悪されるような事態を、
想定する必要が無いってことですよね。

ああ、そういうことでしたら、
心安らかに、
伸び伸びと過ごせるのは当然ですね。
まあ、ほんとにそういう状況でしたら、
最高の「もてなし」だと思いました。

そうですねぇ、私も、他の人には、
そういうふうに接したいものだと、
ほんと、人間関係の学びになりました。

人に対する好印象

今日は、ある催しで、
今日初めて対面した方々に、
すごくお手伝いをいただきました。

してること自体が奉仕的活動で、
お手伝いいただいた内容も、
全く奉仕そのものでして、つまり、
「他の人のために」するわけで、
でも、喜んでお手伝いいただき、
心から感謝、感謝でした。

そんなふうですから、
お手伝いいただきました方々には、
とっても好印象の私ですが、
無償でお手伝いいただいてまして、
だから、「好印象」は当然ですね。

それで思いますけど、
どのような形であれ、
他の人に良い気持ちを持てることは、
そういう気持ちを持つことができた、
「自分自身」が幸福だってことです。

そして、
今日いっしょに活動できましたこと、
うれしかったし、喜ばしかったし、
それは良い思い出になるだろうし、
結局、手伝ってもらえた私は、
「手伝ってもらった」感謝以上に、
「幸福感を与えてもらえた」幸せで、
ほんとうにありがたいことでした。

地獄の人間関係を知る

子どもに恵まれない夫婦が、
児童相談所を介して、
養子を迎えた事例のことを、
テレビで見ましたけど、
3歳で幼女になったという子が、
養父母に対して、もうさんざん、
養父母が嫌がることというか、
普通なら親が激怒する行為を、
「わざと」執拗に行うんですけど、
その例に限らずですね、
親から虐待されたみたいな理由で、
施設に保護されてた子ってのは、
里親に対してですね、里親の心を、
「逆撫で」するような行為を、
わざと繰り返すっていうことは、
一般的に知られてる事実ですよね。

その事例のテレビ番組を見ていて、
私は思ったんですけど、
「里親を困らせ、さらにですね、
 里親を激怒させる行為を、
 わざと行う」子どもとですね、
心理的には全く同じ行為を、
ある種のタイプの親は、
「自分の子に対して」行っている
 ・ ・ ・ ということなんです。

つまり、親が、
「子どもを虐待」するわけですけど、
その手法というのは・・・ですね、
自分の子どもが嫌がることを、
「わざと」させることとか、
子どもが欲することを知りながら、
それを「わざと」満たしてやらない、
子どもが心理的に苦しむことを、
「わざと」行っていじめるような、
そういう仕打ちはもう日常茶飯事で、
悪魔的だと思うのは、その行為が、
「立派な子に育てる為の」しつけ、
つまり、「子どものことを思って」、
親心の教育を施してるんだという、
「見せかけの」理由付けなんです。

それって、「子を虐待する」ための、
いかにももっともらしい大義名分で、
120パーセントの虚偽なんですが、
世の中にはそう欺瞞を行ってる親が、
想像以上に多いと思う私です。

あの、親の気持ちを想像しますに、
「これでもか、これでもか」と、
繰り返し繰り返し執拗に子をいじめ、
虐待に虐待を重ねて、それでもなお、
「親である自分を許容するか?」
 ・ ・ ・ という「試し」をしてる、
あの、そうなんです、まさにそれは、
親がですね、
「こんな自分であっても」、
おまえ(つまり、子どもですが)は、
親の自分を全面的に受けいれるか、
自分に反逆しない「親の味方」か?
 ・ ・ ・ ってことを、
「試してる」んだと思いますけど、
今日の話題、すごかったです。

なぜなら、喜びの人間関係とは、
正反対の内容ですからね、
気分悪い話題ではありますけど、
地獄の人間関係から離れる為には、
何が地獄の人間関係かを知ることも、
必要なことかと思いましたので。

虐待親が良い親に見える時

前回は、高橋まつりさんのこと、
ちょっと書きましたけど、
「無理やりさせられる」って、
自殺するほどつらいことなんだと、
その事件を通してわかると思います。

その「させられる」ってことですが、
「結愛ちゃん虐待死事件」で、
養父は、結愛ちゃんに対して、
朝4時台に起きて勉強するように言い、
できないとシャワーで冷水だそうで、
あの、小学校入学前の子がですね、
朝4時台に起きて勉強っていうの、
大人の私でさえ、朝4時台に起きて、
勉強するなんて、できるわけ無いです。

じゃあ、なぜそんなことをさせるの?
報道では、以下のように言ってました。

「岡山に暮らす祖父母や友人のもとに
 家族をつれていき、
 結愛ちゃんがどれだけ優秀かを
 自慢していた。
 人一倍勉強ができて、かわいく、
 礼儀正しいのだと
 アピールしていたのだ。」
 
あの、そうだとすれば・・・ですけど、
養父である被告自身が、
他の人々から賞賛されることを求めて、
つまり、「自分が」ほめられたいため、
養女を「利用した」ってことですよね。

それで、世の中には、同じようなこと、
それは、親自身がですね、世間から、
「すばらしい親」と見られたいため、
子どもを「良い子」に仕立て上げる、
そして、その仕立て上げ方なんですが、
子どもの心を破壊して親を恐怖させ、
子どもを惨酷無情な扱いで奴隷化して、
「親の言うことを聞く」ロボットにし、
他の子に勝る成果を上げるように、
無理強いするという手法なんですね。

それって、ものすごく残忍なことで、
もちろん、虐待そのものなんですけど、
子どもが死に物狂いで必死にがんばり、
ある程度成果を上げた場合はですね、
「教育熱心なすばらしい親」みたいな、
高評価が得られたりすることがあり、
そうしますと、「虐待してる」事実は、
完全に「埋もれてしまう」んですよね。

あの、今日は、その事実を指摘して、
終わりにしたいと思いますが、
現実世界って、実態とは正反対に、
「悪魔が善人に見える」ってこと、
実際にあるんですよね。

まあ、詐欺なんかも ・ ・ ・ ですね、
「良い人に見せかけてだます」方法が、
ありますけどね、子どもを虐待しても、
世間からは「すばらしい親」に見える、
そういう例って、多いと思います。

そして、虐待されてる子の中でも、
一番悲惨な子は、閉鎖的な人間関係で、
実際は親に虐待されていながら、
見かけは「親によくしてもらってる」、
そういう情況にある子だと思うんです。

この続き、いつかは書いてみたいと、
まあ、その気持ちはあるんですけど、
さて、どうなりますか、今のところは、
わかりません。