人間関係の喜び

幸せの基盤は喜ばしい人間関係にあることを

コロナ離婚やⅮⅤのこと

f:id:jky:20200408182536j:plain

家庭内の人間関係ですけど、
前回は
「あなたといっしょにいることがうれしい」
ってことを書きました。
 
ところが、実際のところ、
日本全国の家庭、また、世界中の家庭ですけど、
どの家庭も
「あなたといっしょにいることがうれしい」
・ ・ ・ って気持の家族ばっかりかと言えば、
たぶん、そんなことは無いでしょうね。
 
家庭によっては、
「極度の嫌悪」を必死に耐えてガマンしながら、
形だけの家族関係を維持してるって事例も、
少なくないと思うんです。
 
そして、そういう家庭では、今、
新型コロナウイルスの感染防止のため、
「家に留まる」ように言われている現状ですから、
「家族がいっしょにいる時間が長くなる」ことで、
ストレスもまた、一挙に増大することになり、
近頃言われるようになったコロナ離婚とか、
ⅮⅤが増加するってこと、ああ、なるほど、
そういうことになるだろう ・ ・ ・ と思いました。

また、不快な日々にイラ立つ親たちが、
子ども虐待に走るって場合もあるでしょうね。
 
でも、今日私が書きたいのは、
「家族間で人間関係が悪い」という問題でして、
それが、感染防止対策をきっかけとして、
一挙に深刻化したように見えまして、
まあ、「病根が見えてきた」って感じですね。
 
それで、家族関係に限らずですね、
「人間関係が悪い」集団は、
存続させても害が大きくなるばかりだ
 ・ ・ ・ というのが私の考えです。
 
極端なことを言いますと、
家族間で人間関係が悪い場合は、
ガマンして家族関係を維持し、
家族に埋没して苦しむ道を脱け出し、
家族から離れて、
一個の「個人」として、家族とは関係なく、
「自分の幸福」を求めるのが良いと、
私は思います。
 
また、夫婦の場合でも、
ガマンして夫婦関係を維持することよりも、
離婚してそれぞれが幸福を求めるほうが良いと、
私は思います。
 
それで、続きはまた後日に。

満足と喜びは人間関係から

f:id:jky:20200407165731j:plain

人といっしょに楽しく過ごすって、
とても喜びだし、幸福なことだと思います。
 
そして、そのような情況で生きてますと、
「こういう自分」であることが、
うれしく感じられると思うんです。
 
また、それは、心に満足感があるってことで、
すばらしいことですけど、そういうのは全部、
「良い人間関係」から生じるものだと思います。
 
あの、人との関係が良好ですと、
自分がこのように在ることに対して、
周囲の人々に自分が認められていて、
喜ばれてることだって感じられますからね、
自分が「このようであること」に意義があるし、
良いことなんだって、
「自分自身を承認」できるんだと思います。
 
また、
「あなたといっしょにいることがうれしい」とか、
いっしょに活動するのが楽しいって気分ですと、
相手の人にその気持ちが伝わると思いますし、
そうなりますと、
「このような自分ですごくいいなあ」って思えるし、
相手の人も、
私といっしょであることを喜びに思ってもらえて、
互いに幸福ってことになると思います。
 
ところで、
新型コロナウイルスの感染が広がるにつれて、
家庭内でⅮⅤが増えてるとか、また、
コロナ離婚なんて言葉が聞かれますけど、
そのことに関して、次回に書きたいと思います。

安心と喜びの人間関係

f:id:jky:20200406064437j:plain

万引き家族」の映画から、
熱アイロンを押し付けられた子の話と、
「4番さん」という客の話を書きましたが、
両者には共通点があって、それは、
「他の人との温かい交流」が
持てなかったということだと、私は思うんです。
 
さて、心が満たされるような「他人との交流」
ということを考えますと、私は、
身体接触って、とても重要なことだと考えます。
 
たとえば子どもは「だっこ」をせがみますけど、
それは、大好きな人との
身体接触の欲求があるからだと想像します。
 
そして、身体接触がありますと、
その人から自分が受け入れられてるってことが
はっきりわかるし、だから、
その人と「つながっている」ことが
体感的に感じられて、
だから、心に安心感と喜びが起こってくると、
私は思うんです。
 
この続きは、また次回にします。

万引き家族の「4番さん」

f:id:jky:20200405111028j:plain

映画「万引き家族」から、
今日は「4番さん」と呼ばれる客の話です。
どういう店の客なのかわからないんですけど、
映像を見る限りでは、「4番さん」の彼、
現実生活では人とのコミュニケーションが
「無い」んじゃないかと推察されました。
 
でも、彼、
人とのつながり、特に女性、
いやいや、女性という表現は正確じゃなくって、
それよりも、
「彼の気持ちを分かってくれる母親的な存在」
・ ・ ・ とでも言ったらいいか、
そういう存在に対する渇望があって、
でも、実情では全く満たされてなくて、だから、
女性と一対一になれる店にいくのかなあ?
 
まあ、それは私の勝手な想像ですけど、
映画のシーンでは、彼、最後に、
背中に手をまわして抱いてもらえるんですよね。
 
ここで私は、
コミニュケーションとしての身体接触ということを、
考えちゃいましたけど、それは次回に。

熱アイロン虐待

f:id:jky:20200404190807j:plain

万引き家族」という映画、
テレビで放送されましたから見ましたけど、
私の感性や趣味には合わないので、
途中で見るのをやめてしまいました。
 
ところで、途中までのストーリーですけど、
家庭で虐待されてた幼い女の子を、
「連れてきて」いっしょに住むんですね。

それ、見方によっては「誘拐」でしょうか?
 
その女の子は、
いっしょに風呂に入れてもらうんですけど、
そのシーンで、
アイロンを押し当てられたやけどの痕を
見てもらえるんですね。
 
その「見てもらえた」ってことが、
非常に良かったと、私は思いました。
 
さて、密室でのできごとは外部に漏れませんけど、
それと同じように、
子どもが家庭内で虐待されてる場合、
その女の子はたった一人、
完全な孤独の中で「孤立」したまま、
痛めつけられる日々を過ごすしかなかいだろうと
私は思いました。
 
そして、家庭内で子どもが虐待を受けることは、
外の世界の「誰にも知られず」に、
まさに孤立無援のまま、
この世界に放置されてることだと思いまして、
まさにそのことこそ、
「痛めつけられる以上に」悲惨なことだと、
私は思うんですけど、
続きは次回にしたいと思います。

自分が「満たされる」こと

f:id:jky:20200403062045j:plain

喜びがあるっていう状態は、
すごくいいです、心地良いです、うれしいです。
 
それで、相手の人といっしょに喜びがあるなら、
もっとうれしいです。
 
そして、「喜び」ってことをとおして
人と関わることができるなら、
私はそういうのが一番幸せだと思います。
 
そういう状態にある時っていうのは、
自分自身に対して肯定的な心理状況ですね。

そして、相手に対しても肯定的ですよね。

そしたら、人と人との関りが、
親密になると思います。
 
私は、そういう状態そのものに
価値があると思いますし、
心が求めてますね、その状態を。
 
そういうのって、
「人に対する信頼」なんですけど、
「他の人を信頼できる」ことによって、
自分自身に対する満足感が湧き起ってくると、
私は思います。
 
さて、次回は、
熱したアイロンを押し当てられた子ども虐待の傷跡を、
映画のワンシーン(万引き家族)で見ましたから、
そのことをちょっと書いてみようかと思います。

守ってもらえるのか?

f:id:jky:20200402062829j:plain

新型コロナウイルスに関して、
緊急事態宣言を出すべきかどうかという問題、
それに関して私は、
「信頼」ということを考えました。
 
緊急事態宣言が出されれば、
いろんな「制限」が課されますから、
さまざまな「不利益」を被る人も、
多々、出てくるでしょう。
 
それで、
(1)たとえ不利益を被る人が出ようとも、
種々の規制を行って感染爆発を防ぐべきか、
(2)感染爆発で大被害を出そうとも、
個人の利益が損なわれる規制は行わないか、
選択が迫られる事態になってると思いますね。
 
さて、人は、
「ガマンさせられる」ようなことって、
いっぱいあるんですよね。
でも、ガマンできるってことがありまして、
それは、一時的にガマンさせられたり
多少の不利益を被ろうとも、
結局、自分は、そして人は誰でも
「守ってもらえる」ことになるんだという
人に対する信頼感、
社会に対する信頼感、
そういう「信頼の気持ち」があるからこそ、
自分がガマンすることも受け入れられるし、
不利益も容認できるんですよね。
 
ところが、結局、
「自分は守ってもらえない」という
感覚がある場合は、
ガマンなんてさせられたくないし、
規制なんか、されたくないんですよね。
 
あの、ここで私が言いたいことは、
新型コロナウイルス関連の問題ではなく、
人の気持とか、
人の行動ってことでして、
人がどういう態度をとるか、
どういう行動をするかってことは、
人間に対する信頼感を心の中に持っているか、
あるいは、人間というものは、
自分の利益だけを考え、
他人がひどいめにあっても、
そんなことは意に介さないものなのか、
そへんの「人間観」に基づいて、
人の行動は変わってくるということなんです。